Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.28

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その8

 









調



 
家主篠崎長左衛門は、借家にかゝる事出来せし事故、他参留仰付けらる。然るに山田屋が家つけたての節、大塩が落文とやらんありしにぞ、役人衆立合にて、「之は何れより手に入りしや、定めて大塩に同意なる故、かゝる物の此家に在ならん。有体に申すべし」となり。

猿之助がいふ。決して左様の事にはあらす。之は篠崎より板行を借りて写されしにて候といふ、外に兵書もありしが、これも篠崎より借りしといふ

直に篠崎を呼出して之を糺されしに、長左衛門が答に、「いかにも左様にて候」と申す。「其方には斯様なる物何れより手に入りしや、板行の由なれは定めて大塩が手よりして得し者ならん。委細に申すべし」とありしにぞ、

長左衛門いへる様は、「玉造組与力坂本源之助より借り候て、弟子共が写取候を貸し候にて、決して大塩の手筋より出候にては之なき由」を申す。

役人又いふ、「猿之助が申し候には、板行也しといふ事なるが、左様なるやいかに」、長左衛門がいふ、「決て左様にてなし。卦紙に写せしなれば、子供心に板行也と思ひ違へるに候はん」といへるにぞ、「然らば出所も慥なり。併し家主の事なれば、他参留申付くる」となり。

長左衛門大塩が落文を借りて写せしは、北浜三丁目肥前屋又兵衛なれども、これを有体にいふ時は、彼が難義とならんと思ひ、幸に坂本源之助心易きことなれば、此名を以て僞りしが、坂本には何も知らざる事故、比事聞合せ等有りては一大事なりとて、直に息子長平を走らせ、「斯る事の有りし故かく答置候へば、御奉行より聞合あらば、其由に答へくれられよ」と頼みしかど、源之助これを諾はざりしにぞ、

詮方なくて引取りしといふ。かくて御奉行所より玉造口御定番遠藤担馬守殿へ御聞合あるにぞ、坂本を召出し糺されしかば、「篠崎より頼み来しか共、諾はざりし由」を有のま侭に申せしにぞ、

遠藤より其趣を返答せられし故、高津辺の会所より、「篠崎親子の者共を召連れ来るべし」と、斎藤町へ申来りしにぞ、

 









年寄米屋佐兵衛これを召連到りしに、「儒者の身分にて大勢の弟子を取り、五常の道を人に教ふる身分にして、公儀へ僞りを申上げし段不届なり」とて、大に叱りを蒙りしにぞ、

肥前屋又兵衛と申す者より実は借り候へ共、有体に申上げなば彼を御詮議にて、夫より先々の本迄御糺有る時は、多くの人の難義ならんと思ひし故、僞りを申上候ぬ。かく偽りし事は恐入奉りぬ。如何様の御咎仰付られ候共畏奉る。何卒御憐愍を以て、肥前屋の難儀になり申さぬ様希奉る」と申せしかば、「公儀が重きか、肥前屋が重きか、儒 者の身にして其弁別なきや。急度御吟味の筋有れば町内へ急度御預けなり、其旨心得よ」と仰渡されしといふ。

備前屋又兵衛御糺有しかば、大和田大三郎より借りしといふ。大三郎大和屋庄左衛門より、庄左衛門は水田の神主よりかりしと、有のまゝに申上げ、御咎はなかりしといふ事なり。〕

篠崎は儒を業として博学多才の者にして、至つて高名の者なり也。又行状・心志大に儒業に背し事多くして、至つて欲深き人なり。これを爪崎と称して、これもまた至つて高名なり。古より古学なりと唱へぬる者は放蕩を事とし、朱子学と称するもの才器屈縮して君子めける迄にして、世間の人情に少しも通ずる事なく、陽明学を唱ふるは此度の大塩が如し。俗人の無学文盲なれ共、よく家を治め身を治るものは大学者より遙に勝れるもの多し。世に儒者の多く用ひられざるも、あヽ宣なるかな。

既に此先生も二月十九日折節他行なりしかば、平日の行状故か、大塩に組せし者ならんなど、世間にても専ら取沙汰す。人は平日の行肝心の事にして、深く慎べきものなりと。〕

 


「咬菜秘記」その47/その48


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その7/その9
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