Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.8訂正
2000.10.6

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その14

 








焼失の後、加島屋久右衛門一人前に百文づつ施行、十一万貫 *1 に余れり。加島屋作兵衛一人前に三百文の施行す、一万貫の銭なりといふ。小橋屋□□ * 千貫文の施行せしといふ。とても施行する程の事にてあらば、同じくは焼かざる已前に是をなさば、晴立ちし事なるに、施行しながら一向に乗り立たぬ **1 事なりし。

    【編者頭註】
    **1 のり立つハ引きたつコト

焼失後上より御触有りて、便(たよ)る方なき貧人共を御救下され、何れも道頓堀芝居小家に差置れし。余りに混雑する故、高津御蔵跡に御救小家建て、三郷を分けて別々に差置る。人数五万に余れるといふ。

 
 







信州上田の家老、下役の者を引連れ当処へ出来り、難波橋俵屋幾助といへる宿屋へ滞留。こは今度淡路町辺の町人を新に蔵元に頼みしに、一応にては承知せざりしにぞ、 近年諸侯町人を賺す事甚しく、種々様々なる事申来りぬるにぞ、此者も容易に承知せざりし故なり。家の什宝にて至つて大切の品を持参りぬ。此宝をばいかなる事ありても他へ出し失う事なり難し。かヽる大切の什宝を預けぬるは、其信義をみせしめんとなるべし。 主家の什宝を持参りて其家に預け置きぬ。

十九日朝より俵屋の二階にて酒を飲みて居りしに、川崎の方に火事有りとて人々騒立つにぞ、己も二階より火の手上るを見て、「こは面白し、何卒大火になれかし。よき見物なり」とて、火事を肴になして大に酒を飲み楽みしに、追々其火広がりて次第に大火となり、鉄炮・石火矢を頻に打ち、剣・槍にて人を殺すなど言【勹/言】り、人々の走廻るを見て、益々興に入つて面白がり、われを忘て悦び居りし処へ、難波橋の橋迄悪徒押来り、空鉄炮を打ちしかば、大に驚き俄に慄出し、己が具足櫃・挟箱等を蔵に持運ばせ、「直に蔵の戸を締め目塗せよ」といひぬれ共、「わが内の物も入れざればなり難し」とて、諸道具を追々運び入れしに、頻に八釜しく言募り、戸を締め目塗させしにぞ、入るべき物を多く其儘になし置きて、此者を泊置きし故に、悉く焼捨てしといふ。

悪徒南へ次第に進み行きて、淡路町辺を焼たつると言ひしかば、此家老喫驚仰天し、袴をもはかず大小を引抱へ、大狼狽へにうろたへて表へ駈出しゝにぞ、下役・家来等も狼狽へながらに附従ひしが、何れも鉄炮・火矢に驚き散々になり失せしが、家老等は若し彼品を焼失ひては、忽ち切腹に及ぶ事なれば、う狼狽へながら漸々と彼家へ駈込み、「大切の宝なり、早く蔵を締めて目塗せよ」とて、八釜しく言ひぬれ共、此家之を聞入れず、「此家の一大事なり、そこ処にてはなし。夫程に大切なる品ならば、早々持ちて立退れよ」といひて、取合はねば次第に火は近付きぬ。家来を尋ぬれ共一人も附添ひ来れる者なければ、詮方なく家老と下役と長持をかたげて逃出でしが、群集に押倒され幾度となく長持を取落し、這々の体にて逃廻はり、やう\/初更過に道頓堀迄逃行きしが、大に弱りはてゝ一歩も進み難く、鮓屋を頼みて其夜はそこに泊りしが、大に足腰を痛め少しも歩行なし難くなりしとて、幾助より之を聞きし由にて、西垣より予に語りぬるもをかしかりし。

 
 









三月五日丑刻、東照權現の御神体川崎へ還御ある。

同日松平周防守竹島一件落着の御触ある。

同日何者の申触らせしにや、大坂に騒動起こりしといふ噂を聞きしとて、丹州笹山より三百人の同勢にて馳参る。され共何事もなき事なれば、大坂へ入りぬるも如何しく思ひしにや、十三村にて宿を取り、六日の朝早々引取りしといふ。

 





 







同七日、播州姫路の城主酒井雅楽頭殿三千人の同勢にて登坂、八百人の供廻にて御城代へ御見舞、実は台命にて御城御固の由。

先手西宮まで来りしかども、最早気遣ひもあるまじくと思はれしにや、又は市中又々騒々敷ならんと思はれしにや、御城代より断にて西宮より帰る。

 


管理人註
*1 三一版では「一万貫」。 * 小橋屋4名(九右衛門・卯兵衛・利兵衛・忠八)が施行銭請書に千貫文(4名計)で名がでている。他に千貫文は、千艸屋恒五郎、加島屋作治郎、平野屋仁兵衛、鴻池屋市兵衛、米屋伊太郎。
『大阪市史 第4巻下』p1275〜1276「3月10日付御触」


「御触」(乱発生後)その1


「大塩の乱」 その13/その15
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