Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.8訂正
2000.10.7

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その15

 








大塩が乱妨後、米相場一日〔石百目といふ、されど売買なし。

其後次第々々に米価騰りて三月五日頃は、一石に付百九十匁余となり、一升売二百文なりしが、明くる六日には二百廿四文となる。

此日阿波座讃屋 *1 にて米屋二軒を打潰す。其潰しぬる者共のいふ、「数多の米屋共を打潰しやらんと思へども、何分にも人気立ち難し。之にて先づ置くべし」といひぬるを、往来せる人の聞居たりしといふ事なりし。

此日米屋何れも戸を締め米を商はざりしかば、小前の者の日々少々づつ米を調へて、其日の飢を凌ぎける者は大いに困りしとなり。潰(こぼ)ちたる者三十人計り召捕られしが、其中にて一人罪を引受け、「何れも我が頼みし故なり。彼等は始めより申合ひてせし者にあらず」と申立てぬるにぞ、此者一人牢舎にて、其余は明くる日直に牢より出されて、町預となりしといへり。

 
 






去る十九日松屋町の牢焼失いたしぬる故、軽き科人共は追放しに相成り、騒動静まりて後に帰り来れる者共は、其罪一等を許されぬる由を申渡されし事なりといふ。

此者共道頓堀島の内辺にて、食物商ふ家々に入り込み、何に寄らず勝手次第に取喰ひ、此方共は暫し藪入りせしなれば、思ふ儘に気延しすとてあばれ廻れる由。其外処々へ盗入りしなどいふ噂あり。此者共の所為にやあらんといふい事なり。其外灘辺より兵庫に到る迄附火ありて、少しづつ焼失し、賊大に徘徊すと噂なり。定てこれらの所為なるべしといへる事なりし。          

 
 









三月十日夜、近藤梶五郎己が住みし屋敷の焼跡へ忍び来り、切腹して相果てしといへり。焼残りたる雪隠の中にての事也とぞ。見苦しき有様なり。

同十一日の事なりしに、遠頓堀を大勢芸妓共を乗せ、三味線・大鼓等 にて大騒にて浮れ行く船ありしかば、若き者共橋上よりこれを眺めて居 たりしが、「かゝる時節をも憚らず不埒なる馬鹿もの思ひしらせん」とて、三人にて大なる石を持来り橋上より、船の直中へ投落す。之をみて其辺に在合ふ者共、銘々に手頃の石を拾ひ取つて打付しといふ。定めて船中の者共大に怪我せし事ならん。されども隙取つては如何なる事にあひやせんと、大に恐れしと見えて、這々の体にて船を早めて逃去しといふ。

 
 







大塩が行方天下の諸侯に命じ、草を分ち海底をも探しぬれとも、同中旬に至れども一向に知れ難し。

彼素より与力の事なれば、定めて地理・水理の事をもよく弁えあるべし。辛苦艱難をなし飢に苦るしみつゝ、陸を走り山を攀登りて逃れ廻らんよりは、糧を貯へ寝ながらにして、安心に千里を走る船にして海外に走去りしものならんか、さなくして斯様に手廻らざる程の事は有るまじく覚ゆ。彼も事を起せる程の曲者なれば、其逃るゝに道なきに迫らば石を抱きて海底に沈み、屍を見する程の事はあるまじく覚ゆ。若し此者陸地を走り召捕らるゝ事あらば、首縛りて恥を晒せる瀬田済之助等と同日の談なるべし。

十九日に道頓堀の山田屋何とやらんいへる者の家に走込み、具足ぬぎすて置て出去りし者両人ありしといふ。専らこの者を大塩父子ならんと、噂せしかども覚束なし。

 
 









又米価高直にて、一統に倹約を事とする事故、普請などする者は至つて稀にして、先年の焼場天満・堂島・高津上町等にて、未だ建てざる所多く灰掻も得せで一面に草原となれる処多し *2 。かゝる有様なれば、大工・手伝・其外働人等の仕事なく、何れも飢に苦るしめる折柄、此度の大変にて卒に彼らが仕事出来て、幾人有つても引足らぬ程の事なるにぞ、此者共何れも大悦びにて、最早何程米高くなりぬればとて、大塩様の御蔭にて何れもひだるきめにあふ事なし。有難き事なりとて、あそこヽにて其噂せし由にて、三十人余も其当座に召捕られしといふ。至つて騒々しき事なりし。

此度大塩が為めに焼失ひし米、凡四五千石はあるべし抔いへる噂なりしが、其後に至り米価次第に上り、三月十日頃に至つては一石二百二十目の相場となる。相場は此の如くなれ共、さらば米を買入れんとする時は、一石二百三十目にても手に入り難しといふ。諸人只麦作のよからん事を祈りて、之を待つのみなりし。〔頭書〕三月十三日頃より米価益上り二百三十目となる。*3

 


管理人註
*1 「讃岐屋町」。
*2 天保5年7月の天満の大火。
*3 『日本庶民生活史料集成 11』ではこの部分で脱があると思われる。


森鴎外「大塩平八郎」その11「信貴越」


「大塩の乱」 その14/その16
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