Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.11.6

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その24

 









大塩が此家に忍び居りしは二月廿四日よりなりとも、又当月廿四日に、尼ケ崎の方より、親子共駕籠にて入込みしを、跡をつけ来り訴へしとも、此家の召仕よりして密に訴へ出しとも云ひて、取り\゛/なる噂なりしが、こは定めて二月騒勤後は、上下共大狼狽に狼狽へて何れも大いに気後れし、風の音・雨の音などにさへ驚き騒ぎぬる折柄なれば、定めて其間を考へて、其節に忍込みしものならんか。米をば袋に入て、五郎兵衛密に之を持行き、飯は炭火にて自ら之をたき、菜には鰹節のかきたるを用意して有りしといふ。さもあるべし。

其当座直に五郎兵衛は囚人となり、町内より昼夜番人を附置きぬる程の事なるに、いかに外なる入口より忍入りぬればとで、騒動後は別けて、何れの町にても番人繁く廻りて、厳重なる処へ入込みぬる事のなるべきや。若し又駕籠にて入込みしといへる事、実事なる事にてあらば、尼ケ崎にも兼て其備へ有ぬる事なれば、いかに当時武道廃れ果てぬる世の中にて、尼ケ崎の者共彼れを鬼神の如くに恐れぬればとて、僅か両人のことなり、尼ケ崎の一家中計にて之を恐ろしく思へば、町人・百性迄も加勢なさしめてなりとも、如何様にもなるべき事ならんに、おめ\/と其城下より駕籠迄かさしめて、密かに其落著く処を見るに及ばんや。殊に人違にても苦しからざることは常法にて、御触書にもこれある事なれば、こは騒動の紛れに入込みし事ならんと思はる。

又当処にても此家へ両人の忍びいる事前日に知れて、廿六日の七つ頃より所々の固をなして、之を取囲みながら、一人も座敷へ踏込みてこれを生捕らんとする者なく、翌日迄も只其外を固め、火の手十分に上りて、最早其自滅せしを知りて、漸々と水にて火を打消して、真黒に焼けたる屍を取出し、鳴呼がましく手柄顔するもをかしき事なり。

大塩も天下の大禁を犯し乱妨・狼藉をなし、大に諸人を困窮せしむる程の悪事をなせる身にて、一味の者共悉く自害或は召捕られぬる事は、委しく五郎兵衛より聞きつる事ならんに、親子両人忍び居て何事をかなさんと思へるにや、をかしき事なり。

是等の手振にても、其始めに此者共に乱妨・狼籍を十分になさしめて、之を取逃がせし事の拙かりし事を思ひ知るべし。

今朝も火の手上るや否や、頻に半鐘を打立てゝ、「そりや大塩じや鉄炮じや」とて、世間大いに狼狽へて騒ぎ廻りし事なりし。

又尼ケ崎よりも奉行一散に大勢にて馳付けしといふ。予も其辺を通りしに、大層の群集にて、往来も六ケ敷き程なる事なりし。大塩平八郎は火鉢の中へ投炮碌を打込み、自害なして其火鉢の上に俯向き、腹這ひ臥して真黒に焦れ居しといふ。炮碌玉のはぜぬる音大いに響きしより、又炮碌を打てる迚騒ぎしといふ。

 










二月十九日の事とかや、百姓一人大塩が乱妨に後れ、何れもちり\゛/に落行きし跡にて、天満橋の上を救民と書記したる幟を持、うろ\/なして居たりしが、此百姓至て弱々しく見えしにぞ、東奉行の徒士通り掛りしが、余りに弱々しく見へぬる故に、此旗をこは\゛/奪取りしかば、其百姓は早々逃去りしといふ。此男其旗を持帰りて、手柄面をなし頻に高言を放つにぞ、城州にも何れも\/後れぬる計にて、聊の功もなきもの計なるにぞ、之を大いに悦び、御城代へも其趣事々しく申上げしかば、御城代より、「此者大いに手柄せし事なれば、取立て召仕はるべし」と声かゝりにて、此者暴に五十石にて徒士頭に取立てられしかば、大に臂を張りて傍若無人に振舞ひぬといふ。せめて其百姓を生捕るか但し首にても切来らば、少しは功立でしともいふべきことなれども、左様の事にてもなければ、可笑しき事なり。尤も戦場にて旗を奪取れるは大なる功にして、急度之を賞する事なれ共、是等はそれと同日の論にはあらず。

 


「御触」(乱発生後) その2


「大塩の乱」 その23/その25
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