大塩の乱 その25 |
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大 塩 一 件 の 原 因 の 一 説 |
或人の云く、昨年秋の半ばよりしては米も大いに払底になりて、冬に至りても米一向に登る事なく、米価頻に尊くなりぬるにぞ、大塩より奉行へ申様は、何卒御威光を以て当地町人共より、諸大名へ金を余分に貸し申さゞるやう仰付けらるべし。さある時には諸大名何れも囲いぬる米を売払ひて、其融通をなすやうになりて、追ひ追ひ当所へ米を積登せる様になりて、米も沢山になりて、自ら其価も下落するやうになりて、貧人饑餓の患ひなきに至るべしと申立てしかども、城州これを聞いれずして、却てこれを叱り、与力風情の身分にて、殊更隠居して有りながら、いらざる口出しなり。其方如きのしりたる事に非ずとて、大に辱かしめられしより、平八郎これを憤りて、夫より城州を討取らんと思立ちしといふ。此事を始に内山彦三郎 *1 へ噂せしに、同人は之を尤に聞取りしかば、此者と諜し合せて、大塩は隠居の身分なるゆへ、内山は西国へ下り米の有無を取調べ、大塩は城州へ右の噂をなせしかども、其言用ひられずして、遺恨を生ぜしといふ事なりといへり。 大塩が乱妨せし後三月半ば過に至り、鴻池善右衛門城州と馴合ひて、米の買占をなせしなど、専らに風説せし事なりし。かゝる事はよもやあるまじき事に思はぬれ共、城州と鴻池との評判は世間にて散々に言囃しぬる事なりし。 | |
下 層 の 民 大 塩 | 大塩が乱妨にて焼立てられ、此度御救小家にて御救を蒙れる者共は、何れも飢渇に迫り、口を糊する事もなり難き者共計りにて、焼かれし御蔭にて御救ひに預かれるも、大塩様の御蔭なりと思へる者計りにして、満足なる者は一人もなく、其外大工・手伝・日雇等は、密に大塩が乱妨によりて其仕事出来せし事を悦べる者多しといふ。 |
を 崇 敬 す |
西 田 青 太 夫 |
西田青太夫といへる与力は格之助が兄分也。乱妨後も矢張奉行所へ日勤せしが、大塩親子自害せし翌日に至り奉行より、「遠慮差控すべし。されども程なく相済みぬるべければ、必ずしも短気なる振舞すべからず」と、申渡されしといふ。此者これ迄地方を勤めしが直に余人に其役を命ぜられしといふ。いかゞなれる事にや。
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