Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.4

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

大塩謀叛の計画

 
 








 
天満組与力大塩格之助隠居大塩平八郎は、先年町奉行高井山城守勤役中用ひられ、平八郎計り提刀を免され、吟味与力外になきが如し。

其頃京都八坂住居神女豊田貢と申す者、切支丹末流にて、大坂にて召捕り拷問に及び候へば、聊責苦に至るのみ不申口。平八郎仏学演舌にて終に罪に伏し、三郷引廻し磔に行はれ候。

其頃但馬守 *1 転役平八郎も隠居罷在候。

去る申年当奉行跡部山城守学業才智と承り候て、内座へ招寄候て、公事相談も之有中に、米高直市中施行の儀に付、平八郎が申す條不用是より怒り、再び罷出でず候。

尤此度の逆意当奉行を相手取るには無之、天保四年のころより企申候由。当年も中々二月頃斯様の儀に相成候訳合には見え申さず候。

正月廿八日同心厄介の内、一味の者余 *2 の儀にて家出致し、行方知れず候故、万一彼が密謀企を洩らし候はんと心いらち候間、俄に相成候。

且摂・河・泉・播の百姓共政事を誹謗致し、自分の奉行頭人迄も討果し、大坂豪富の町人を焼打ち、其余米等貧人に与へ、此節の難渋救ひ遣し可申間、市中騒動に及び候を承候はゞ、近郷・近村より駈付申すべく、夫々に配分致すべき由を心斎橋河内屋武兵衛を初、本屋へ植字板にて知れざる様に申付け、作文致すべく候。

紙五枚程の物を天より下し候等書致し、村々郷々へ捨可申心掛に候。

扨其事整候如何様の企にて候はんの処、前書の出奔人より 心急ぎ、二月十九日堀伊質守新役故、山城守同道の処にて巡見の砌、同与力平八郎が宅の向なる、朝岡助之丞方に休息の節、一味なる河内般若寺村忠兵衛手下百姓旅行と申しなし、呼寄せ置き不意に押よせ、両奉行を殺し、留守は十八日夜詰なる与力一味たる瀬田済之助・小泉淵次郎、両人留守宅へ火を掛け申すべき手筈に候処、一味同心平山助次郎変心に相成り、跡部へ其旨密訴致し候間、夜中泊詰なる与力瀬田・小泉と閑室に入れ、吟味致候趣にて、山城守家来両人を呼寄せ候節、帯刀を取懸り候て、両人事露顕と心得刄向ひ候故、小泉淵次郎をば討寄せ、奉行所にて斬殺し申候。

瀬田済之助は逃出し、裏手垣を押破り、平八郎方へ参り候に付、今は是非に及ばず。

十九日の朝自宅より近隣人大筒を以て焼之煙の中に支度致し、自宅に火を懸け押出し、天満天神堀川境迄残らず放火致し、天満橋迄押渡し申すべく存候処、

御鉄炮方同心御城代家来橋の前後に固め居候間、よしや一重相破り候ても亦橋向にも之有り、爰にて手間取るも残念とや存候はん、天神橋へ参り候処、橋折り切落し候間渡り難く、終に難波橋へ参り候に付、未だ杣の京橋へ斧を打込候に付、追散し押渡り、鴻池初め今橋筋の豪富の町人共へ大筒放火、焼立々々東奉行所へと志候にや、

高麗橋押渡候処、奉行出馬にて場合悪しく、平野橋を取て返し、思案橋より乱入る。

淡路町にて奉行は玉造京橋与力等加勢出馬故、大筒を居ゑ、其人敷打倒さんと向ひ候処、小筒与力・同心放し候侭にて引退き、思ひも寄らぬ横合を迫り、先に進み来候玉造与力坂本源之助・柴田勘兵衛、同心山崎弥四郎・糟谷助蔵を始め、一同筒口を揃へ打立候間、雑兵等散乱に及び候。

大筒打手・捧島縮緬小袖に黒き羽織著用の者、大筒を仕掛居候を、横合より右の仕合故組直さんと致候内、坂本源之助彼を狙候玉込致内、用水桶脇に一人の賊小筒以て出で、源之助が大筒先に狙居候を狙ひ、今や放さんとするを、与力同列本多為助見留め、二声程声掛け候へば、源之助は一向(ひたすら)大筒元を狙居候を存申さず、為助是非なく賊徒へ小筒で玉込致し狙候。

源之助・為助、賊徒此玉の鉄炮一同にはつと打ち候趣にて、源之助は陣笠の左の端を賊に打抜かれ、為助が鉄炮で賊徒の笠の上をすつて外し申候。

鉉之助が鉄炮はかの大筒先の腰を左より右へ打払ひ候間、忽ち倒れ申候処、与力・同心一度に声を掛け立寄り申候。此時一同賊徒右往左往に散乱致候。

山城守下知にて大筒先の首を取り、槍に貫き持帰り申候。此余乱玉に打倒れ候賊徒両三人、淡路町高麗橋へ散乱の節捨置き候は、百目玉車付大筒三挺・四五貫目玉木炮一挺・火薬・葛籠拾計り程長持二棹・旗二本・槍四五本・具足櫃二つ・大小一腰皆々奉行の手へ取入申候。

此長持内に百姓へ散らすべき落文多く之有り候由、右にて市中も放火は之無く、廿日は余煙広がり、谷町迄焼け申候。

 
 


管理人註
*1 病気退任の高井山城守のことか。跡部山城守は、天保7年(申)、東の奉行に着任。
*2 河合郷左衛門のことか。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その12/その30
商業資料「大塩平八郎挙兵の顛末」その3


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