Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.7.25

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 野口市郎右衛門見聞之記録 その9

 















  聞取風説書

一、大塩平八郎此度の企は、両三年已前より存し立つにて、兼て江戸表へ罷下り、懇意の旗下衆 或は大名の家老とも云ふ 出会の砌、世上の風儀百年来の有様、恐多くも御上の向の取沙汰の評説に及び候処、平八郎の剛性を不怪賞誉被致候。尤於大坂先年切支丹懸り長吏等の裁断抔を不怪自負致 平八郎役中御奉行高井へも度々罷出 大に当時安治川口新築山水利の談抔も批判致し候由。此時自分宿志憂世の説を内々相話し候処、粗々同志の仁も有之由 是は自分の慢気例の気質より人々陽諛を誠実と心得候段尤も拙き事也 其後格之助初め門人共町打火術稽古と称し、公儀よりも鉄炮等を拝借致し、専ら火薬を拵へ候由。此時に当て御城代 土井大炊頭様 御家老の内姓名某といふ人、学問談論の為内々対面有之、当時飢餓の者共奉行所裁判救命の不行届き、米政の粗相なる事抔を自裁に被論候事も有りける。

猶又当時東奉行所には西与力を御取用ひ抔にて、専ら東西并局の御仕法抔を嘲笑し、自分の世々用ひられざるを憤りたる宿心を顕し、小人の拘々として死せん事を共にするを歎じける。桓温の「醜を万世に伝へん」と云へる気象を被話たる処、右某殿大に同志にて、種々表向諛諂の詞も有りたる由 此某も畢竟人心知らざる也。猶一大事にも相成候て、主人も後立とはなられ可申抔の、一時興談もありたる由 願右弥、高慢強く隠心の者夥しと心得たる愚さよ。

扨機密一件を自分弟子共へ打開きたるに、誰敢て一人も仰天せざるはなきなり。併例の堅剛不敵の性質故、各々連判承知は不得止致したるなり。 兼て西与力吉田勝左衛門・内山彦二郎其外役に立ち候者、東併局に被取用候に付、東与力一統銘々不快の段度々雑談の内、平八郎方にて訴嘆致し候儀、度々の事也。因て此一儀無拠承知に及ぶと云ふ。

併し所詮事成就は覚束なくとは皆々覚悟候得ども、其内には此一條もよもや発挙は無存懸義と、互に思ひゐたるなり。























中には直諌抔致し候者も有之候得共、厳しきめに遇ひ、既に彦 根侯家中宇津木香之助 *1 と云ふ仁、武術には委しく、兼て平八郎と学友なれば、長崎より帰路被立寄候処、平八郎宿志を被話候処、香之助大に被諌候に付、一応は平八郎も改過の体を見せ、門人大井庄一郎へ内意申付け欺き、鎗にて突殺したる人とも十九日発起の已前に有りたり。

斯様の勢ひ故、皆皆不得止事同志の約決致したるなり。河井郷右衛門抔は無二の門人なれど、正月下旬約を背き出奔したり。吉見九郎右衛門抔病気にて引込み、内々平山助二郎は返忠を致し、余程の一統実に一致と云ふにあらず。是平八郎我慢より拙策茲に及びたるなり。 平八郎存念には、天満乱妨の初、人数追々差加はり候積り、船場へ渡り、山中辺放火の頃は、手勢二千人計りも有之より差加り候心得なり、可笑々々。

 
西









一、西御奉行堀伊賀守頃日大坂著に付、大坂町々巡見有之趣町触にて、跡部山城守様にも先例の通御立言に付、十九日巡見当日の処、俄に相止み候。是則ち平八郎宅向ひ朝岡助之丞殿へ巡見、先例両奉行へ立寄候機を考へ、兼て趣向の大筒火器を打込の手筈の由、既に十八日夜吉見・河合の両子内訴より泊番御糺に相成り、瀬田済之助は塀を乗越え逃去り、小泉淵次郎は近習等へ手向致し、鎮守稲荷社前にて被打果候。此珍説より弥々、御備に相成り、済之助注進より平八郎方にも、十九日朝発起と成りたり。此一條は両御奉行書上げて、具に御認の事。

 


管理人註
*1 宇津木矩之丞。
 井上哲次郎 「宇津木静区


「浮世の有様 野口市郎右衛門見聞之記録」その8/その10
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