大塩動乱の顛末竝に著者の管見 *1 その1 |
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本 書 編 纂 の 由 来 |
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御 代 泰 平 を 謡 ふ |
抑々徳川の流は堯舜の御代とも云ひつべし。万機の政穏にして慈悲の浪四海に普き、治めざるに平なり。君々たれば臣も又水よく船を浮ぶとて、此難波津は其昔、仁徳帝の御宇かとよ、三年(とせ)調を許されし、御代にも増すやます鏡、曇らぬ例し有磯の海の、浜の真砂の数尽し、弥増に運ぶ御宝は、千穐万歳の千箱の玉の八百万、八島の外迄波もなく、広き恵は筑波山、繁き御影は大君の国なれば、土も木も栄え栄かうる津の国の、難波の梅の名にし負ふ、匂ひは四方に普くて、一花開くれば天保八酉の春とぞなりにける。 | |
大 坂 城 番 の 諸 役 |
時に御城代には総州古河城主八万石 土井大炊頭殿、御定番には江州三上 壱万石 遠藤但馬守殿、今一人 米倉丹後守殿未だ御著無之事壱万石 并大御番頭 参州新城 菅沼織部正殿・ 河州狭山 北条遠江守殿、御加番には 越前大野 土井能登守殿・ 越後与番*2 井伊右京亮殿・ 出羽長瀞 米津伊勢守殿・播磨安志 小笠原信濃守殿、御目附には中川半左衛門殿・大塚太郎右衛門 *3 殿。
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