Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.8.2

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『洗心洞箚記』 (抄)

その24

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

附録抄

 洗心洞君  川北重憙

(かたじけな)く手書並新著一篇を領し、反覆熟読す、
姚江の淵源を極め、良知の薀奥を尽す、
未だ眉宇(びう) に接せずと雖も、数日の教誨を聞くが如し、欣抃(きんべん)の至りに堪へず、
僕藩主に従うて屡々京摂の間を往来し、夙に高誼を聞けり、
己丑(文化十二年)の秋、西肥より帰り、横山生を介して刺を通ぜんとせしも、先生大獄をじ応接に遑(いとま)あらざるを聞き、而て中ころ輟(や)みき、
爾来西上するを得ず、
下風に趨(はし)らんと欲するも、其の願を遂ぐることなし、
横山生の東する屡々茅盧(ぼうろ)を訪ふに会ひ、置酒豪談、指を天人傑に屈す、
而て横山生盛に先生の学徳功績上国に冠たるを説く、
因つて、先生○○を一洗し、功名倶に遂げ退いて儒業に隠るるを審かにす、
又た曰く、先生亦子を眷顧せり、
(なん)ぞ近製を出して是正を乞はざるやと、
率爾悪詩一首を書して以て呈す、
固より酔狂の為、醒後惘(まう)然たり、
何ぞ図らん、
(みだ)りに下存を賜ひ、愧赧(きたん)已まず、
(つ)いで先生佐藤一斎に贈りし書を読むことを得て、先生の世系の由る所を審かにし、未だ巻を畢(を)へず、
(き)然として歎じて曰く、
(あゝ)僕の先生に於ける、三百年前已に旧因ありと、
是に於て益々曩(さき)に相見ざりしを悔いぬ、
僕本貫は岩瀬、奥(おう)の岩瀬邸に出づ、
十葉流難し、駿侯今川氏に仕ふ、
実に先生と同朝たり、
桶挟間の役、挙族死亡す、
而て今川氏も亦た振はず、岩瀬の余(よげつ)、去つて大府に仕ふる者を式部某と為す、
某の支流某、去つて本藩に 仕ふ、
これを僕の宗室と為す、
其の後数世にして行言(ゆきこと)といふものあり、
書を嗜み学を好むを以て聞ゆ、
是れより先僕の家、最も踈族(そぞく)を以て、母氏の姓を冒(ばう)して今に至れり、
僕天真軟弱、幽憂善く病み、進んで祀先戎軒(じうけん)の業を継ぐ能はず、
退いて宗室文学の範に依るを得ず、
犬馬の年既に已に四十、一も成就する所なし、
而て自ら顧みず、
藩邸に抗顔し、世儒の為に傚(なら)はず、
而て別に一癖を為す者は、抑々説あり、
僕の家は素俗吏たり、
文学を以て吏治を飾るは、僕の本志なり、
嘗て行事に試むと雖も亦た唯だ志大に才踈に、時俗に脊馳するもの許多なり、
是を以て苛も吏にして文ある者を聞けば、往きて之に従はんと欲すること、
猶飢人の食に於ける、渇者の水に於けるごとし、
而て世其の人を見る罕(まれ)なり、
此れ先生を欽慕して已まざる所以なり、
夫れ僕の先生に於ける、旧因を論ずれば則ち彼の如し、
其の居る所と、其の志ざす所とを論ずれば又た此の如し、
(ほゞ)先生一斎に与ふる書の云云といへるものに似たり、
而て先生功名倶に遂げ、退いて儒業に隠る、
僕猶軌轍(きてつ)に区区たり、
惟だ先生憐を垂れよ、諭を承(う)く新著一閲の後は、之を羽倉県令に致すこと謹んで教の如くせん、
近作若干篇伏して批評を請ふ、
方金一柄、敬んで魚費に供す、
叱留せば幸と為す、
時下微寒、道の為めに自重せよ、十月念二。

川北氏は島原藩の儒臣、俗名は喜左衛門。

   【原文(漢文)略】


石崎東国『大塩平八郎伝』 その58
井形正寿「横山文哉と島原・三之沢村」その2

『洗心洞箚記』目次/その23/その25

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