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此に於て考ふべきことは、中斎は石間竹間の物質界の空虚と、人欲の
障蔽を去つた鑑空衡平の精神界の空虚とを混同せるかの如く見ゆるも、
中斎から見れば、物心は不二で、心上の虚も霊其物なれば、物上の虚も
霊其物であると見るのであらう。然らば物質は之を如何に見るか、箚記
の第二項に「心葆有万有」とある如く、物質は太虚の物質であるのだ。
譬へば氷といひ、泡といふも、水の氷であり、水の泡であると一般であ
る。此点中斎は語つて精しからざる憾あるも、物心一元の見地に立てる
ことは、虚々窺はれるのだある。中斎又曰ふ「常人方寸の虚は、聖人方
寸の虚と同一の虚なり」と、さらば如何なる人も人欲を打ち払つて、心
太虚に帰すれば、聖人となり得るのである。又曰ふ「方寸の虚は便ち是
れ太虚の虚にして、太虚の虚は便ち是れ方寸の虚なり、本と二つなし」
と、さらば天人、本と二つにあらず、常人は人欲の壁を築いて天と遠
ざかるのである。
さらば太虚と良知との関係は如何、其は太虚の霊明の処を良知と称す
るのである。中斎曰ふ、
夫れ良知は只是れ太虚の霊明のみ。
又曰ふ、
真の良知は他にあらず、太虚の霊のみ。
さらば無形より太虚といひ、霊明より良知といひ、本と一物の二種で
あるのだ。然らば王子、既に良知を提唱せり、中斎更に何の故に太虚を
力説したであらうか、そは人々の性格と其人得力の処、如何に依ると思
ふ。中斎は本と至ク為の人、其弊や作為執持に陥り易い、其の性向を
匡正するに於て、辛苦尋常に絶するものがあつた、是に於て太虚に悟入
したのであらうと思ふ。
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『洗心洞箚記』(抄)
その8
『洗心洞箚記』(本文)
その3
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