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虚偽を去るは、即ち聖門の「主忠信」なり、「民無信不立」なり。
啻に身口に虚実を去るのみならず、心上独知の処に虚偽を去るべし、大
学の「母自欺」とは是なり。箚記の上に曰ふ。
余一諸生の鏡に臨み、髪を理むるを見る。因て之に謂ふて曰ふ、明鏡
に臨んで鬢髪の鬆るゝか、鬆れざるかを照らさんよりは、良知を明か
にして、切に意念の誠なるか、誠ならざるかを察するに如かず。鬢髪
は鬆ると雖も、君子たるを害せず、意念誠ならざれば、則ち禽獣たる
を害せず。
真に然り、意念の上に虚偽を去る、是れが修養の第一緊要事である。
箚記の下に又曰ふ、
良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことな
かれ。其の工夫は屋漏より来る、戎慎と恐懼と須臾も遺るべからず。
一旦豁然として天理を心に見ば、即ち人欲は氷釈凍解せん、是に於て
洒脱の妙、此れに超ゆるものなきを知るべし。
心上に虚偽を去るは、即ち中庸の「諸ざるに戒慎し聞かざるに恐懼す
る」と一般である、戎慎恐懼を静時の工夫となすは、王学の旨に非ず。
斯くて人欲が氷釈凍解したる風光を、中斎は之を洒脱の妙といふて居る。
又た他時もその境涯を「心性晶亮広大与天地日月一般」といふて居る。
此が又た「帰太虚」の心境であるのだ。
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『洗心洞箚記』(抄)
その11
啻
(ただ)
『洗心洞箚記』(本文)
その15
『洗心洞箚記』(本文)
その184
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