|
中斎は曰ふ「真に良知を致さんとならば、六経四子を読まざる能はず。
真に六経四子を読まば良知を致さゞる能はず」と、真に然り、良知学は
決して読書考索を斥くるものでは無い、真に良知を致さんとならば、其
の切実なる要求として、読書研究が始まるとは陽明学の教旨である。処
で其の良知を妨ぐるものがある。中斎は良知を蔽ふものは人欲にて、之
を細分すれば四つあり」とて
一、知覚の知
二、聞見の知
三、情識の知
四、意見の知
の四つを挙げた。「知覚の知」とは肉体の上に起る痛痒利害の観念にし
て、人も禽獣も同じく有するものである。「聞見の知」とは、耳目見聞
より得たる雑然たる知識にして、論語に孔子が子張を誡めたる、謂はゆ
る多く聞いて疑はしきを闕かぬもの、多く見て殆きを闕かぬものである。
「情識の知」とは、恐怖、憂患、嫉妬などの類、凡そ七情の上より来つ
て、練磨を経ぬものである。「意見の知」とは、論語に「学んで思はざ
れば罔し、思うて学ばざれば殆し」といへる知識にて、寡陋を忘れ、偏
見に捉はれ、自ら是とするもの、今日の共産破壊闘争左傾、右傾など云
へるは、皆此に属するのである。以上四つの知識を排列し、之に四知の
名を付したるは、中斎の創説に属すると思ふ。中斎曰ふ「此四知は賢者
と雖も免れざる所あり、学に志ざすものは、彼の四知の邪障を掃うて是
の一知 徳性の良知 を明かにせざる可らず、故に某一語あり、曰く邪障
徹つて而して霊光見はると、霊光見はるれば、則ち彼の四知皆融会して、
良知の用をなさざるはなし、良知も知覚聞見を廃するを得ざるなりと、
これは中斎が郡山藩士藤川晴貞に答へたる書中に詳かである。此等の言
を視るに、中斎の講学工夫は頗る精密なるものがある。
|
『洗心洞箚記』(抄)
その11
幸田成友
『大塩平八郎』
その65
殆(あやう)き
論語
第2章
為政第二
第15
|