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中斎は、文化十三四年、即ち二十四五歳の頃より、公暇に奉行所の子
弟の請に応じて文武両道を伝授したやうである。文政八年、三十三歳に
は其家塾が洗心洞と名づけられ、従学するもの漸く多くなつた。是に於
て中斎は教育の要は師弟の名を正すに在りと信じ、盟誓文を作り塾則を
定め、厳重督励した。
中江藤樹は、子弟に対して師を以て自ら処らず、子弟を同志と呼んだ。
熊沢蕃山も其意を受け継いで居る。思ふに古今儒者自ら此二方面がある、
山崎闇斎などは、厳に過ぐるほど師弟の道を正した、中斎も此点は藤樹
と違つて闇斎に近い、矢張り其人の性格から来るのであらう。其の盟誓
文は左に、
洗心洞入学盟誓
聖賢の道を学んで、以て人たらんこととを欲せば、則ち師弟の名、正
さゞる可らざるなり。師弟の名、正しからざれば、則ち不善醜行あり
と雖も、誰か敢て之を禁ぜん。故に師弟の名、誠に正しければ、則ち
道、其の間に行はる、道行はれて、而て善人君子出づ。然らば則ち名
は問学の基なり、正しうせざるべけんや。某孤陋寡聞と雖も、一日の
長を以て其の責に任ず、則ち師弟の名を辞するを得ず、而して其の名
の壊ると壊れざるとは、大率下文條件の立つと立たざるとに在り。故
に盟を入学の時に結んで、以て預め其の不善に流るゝの弊を防ぐ。
原漢文
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ シ
一、主 忠信 、而不 可 失 聖学之意 矣。如為 俗習所 牽制 。而廃
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
学荒 業。以陥 奸細淫邪 。則応 其家之貧富 。使 購 某所 告之経史
○ ○
以出 焉。其所 出之経史。尽附 諸塾生 。若其本人而出藍之後。各従
其心所 欲可。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
二、学之要。在 躬 行孝弟仁義 而己矣。故不 可 読 小説及異端眩
○ ○ ○ ○
人之雑書 。如犯 之、則無 少長 、鞭朴若干、是則帝舜朴作 教刑 之
遺意。而非 某所 創也。
○ ○ ○ ○
三、毎日之業。先 経業 而後 詩章 、如逆施 之、則鞭朴若干。
四、不 許 陰締 交於俗輩悪人 。以登 楼縦 酒等之放逸 。如一犯
之、則与 廃学荒業之譴 同。
五、宿中不 許 私出 入塾 。如不 請 某、以擅出焉。則雖 辞 之、
○ ○ ○ ○
以 帰省 。敢不 赦 其譴 、鞭朴若干。
六、家事有 変故 。則必諮詢焉、以 処 之有 道義 故也。非 某欲
聞 人之陰私 也。
七、喪祭嫁娶及諸吉凶。必告 於某 。与同 其憂喜 。
八、犯 公罪 。則雖 族親 不 能 掩護 。告 諸官 以任 其処置 。願
們小心翼々。莫貽 父母之憂 。
右数件。勿 忘勿 失。此是盟之恤哉。
先づ師弟の名を正すの一事、以て中斎の硬教育の第一歩を察す可し。
第一項先づ「忠信を主とし、聖学の意を失ふ可らず」と喝破し、第二項
「学の要は孝弟仁義を躬行するに在るのみ」と掲ぐる処、学は人格を成
すといふ教育の本義が昭々と宣示せられた。厳励の一例としては鞭朴若
干の罰則がある。又た珍らしいと思へるは、怠学の罰として貧富に応じ、
指示する所の書籍を購ひ出さしむることである。家事の変故、及吉兆の
事、必之を師に告げしむるは、師弟憂喜を分つの誼を重んじたのである。
以上各項、悉く中斎の面目を窺ふべきである。
中斎の邸第は頗る広く、其中に故塾、中塾、新塾の三塾があつた。故
塾には講堂があり、中塾は洗心洞にして書斎がある、初め之を中軒とい
ひ、後ち中斎に改めた。新塾は文武の稽古所にて、東鄰の旧宅を修理し
たもので、尤も広かつた。外に書庫が一棟あつて、数千帙の蔵書が収め
られて居るが、其が収めきられず、講堂書斎にまで溢れて居た。中斎は
更に王陽明の龍場書生に示す、立志、勧学、改過、責善の四章を自書し
て講堂の西面に掲げ、之を学堂西掲と云ひ、又た呂新吾の格言十八條を
書して学堂の東面に掲げ、学堂東掲と云ふた。
洗心洞教授の内容については、洗心洞余瀝といふ書に斯く記してある。
大塩は朝七ツ時 午前四時 に起きまして、すぐ講義が一度御座ります。
それから五ツ頃 午前八時 に出仕せられ、八ツ頃 午後二時 に役所よ
り帰られまして、すぐ一回講義が御座ります。それから二三度もある
事があつて、毎日大抵四五回づゝ講義が御座ります。門弟は大抵与力
衆で、四五十人も御座ります、塾生は十七八人許り、余は皆通うて来
られました。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その35
『洗心洞箚記』(抄)
その6
『増補孝経彙註序』
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