Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その31

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

中篇 学説及教法
 第十三章 著書(1)
管理人註
   

 王陽明は殆ど書を著はさゞりしが、中斎は短月日の間に頗る厖大の著 書を成した。然れども其書たる先賢の所説を陳ねて、後人の妄を啓く意 味に出で、他の学者の著書とは殆ど其蹊径を異にして居る点は見逃して はならぬ。洗心洞箚記だけは感想随筆にして、此は佐藤一斎の言志録と 同型である。今順を追うて之を考究せん。 一、古本大学刮目七巻  中斎、初め職を辞し閑居するや、先づ古本大学を取つて、謂はゆる再 検討をした。是は中斎が幼時祖母に句読を授かつた時以来の最も親しみ のある書であると共に、朱子の改定大学に反した王子が謂はゆる古本大 学である。中斎は之を反復熟読して、誠意致知の義を領得し、心理不二 知行合一の本旨を悟つた。而かも其は孔子は固より程子朱子の本旨も其 処に在る然るに後人は一般に之を信ぜず、王子を以て異学とする、因て 此書を著したのであつて、其に自序を附し、最後に左の如く言ふて居る。  余は古本大学を読むこと茲に年あり。昔人が大学を読んで著せる群書  を読み、其の致知格物の訓を服膺して迷心を破つた、猶ほ目を刮する  如くあつた。因て又た節次毎に陽明子及び儒先の説を置て余の按語を  附し、名けて古本大学刮目と曰ふた、死に至るまで心理不二知行合一  の学を修めんとす。然らば但だ陽明子の教に負かざるのみならず、庶  くはまた孔子程子の学要と、朱子の本旨とに叛かず。嗚呼吾に従うて  遊ぶの徒、亦将に目を刮せんとす。  刮目の字面は、呉の呂蒙が魯粛に答へて、「士別れ三日ならば、当に   こす 目を刮りて相視るべし」と云へるに取り、刮はコスリ拭うの意である。 右は中斎の四十歳、天保三年に係るが、此書は稿を起してより殆十余年 を費し、中斎の最も精力を注いだ著書であつた。然かし「門外不出之書」 として容易に人に示さず、門人が之を上梓せんことを請ふたが、辞拒し、 其代りに洗心洞箚記の梓行を許した程である。頼山陽は刮目の序文を約 したが、成らずして死し、中斎深く之を遺憾とした。佐藤一斎は序文を 辞した。斎藤拙堂は序文を脱稿したらしいが伝はらない。  其後中斎感ずる所あり、天保七年六月、之を梓に附した。其は中斎挙 兵の前年であつた。大学卒章の「小人が要路に立つて財用を務むれば災 害竝び至る」とあるのが、中斎をして此書を公にする動機を作つたと謂 はれて居る。此書刻成つて早くも変に禍せられ、当日の板本は殆ど存せ ずといふ。

石崎東国
『大塩平八郎伝』 
その8

厖大
(ぼうだい)

陳(ひ)ねて
年を経る、古く
さくなる

蹊径
(けいけい)
こみち

『洗心洞箚記』(抄)
その12


















服膺
(ふくよう)
心にとめて忘れ
ないこと

庶(こいねがわ)くは


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