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中斎は、前項に述べたやうに、学問の必要を覚つて、儒学に志ざした、
アサ
思ふに儒書を漁ること数年に及びしならん。嚮きに句読を授かりし篠崎
応道は、七十七歳を以て中斎の二十一歳の時に歿した。其他に師を求め
しや否や詳ならず、而かも当時の儒者は大抵文義を講授し、詩文を作り
書吏に博渉するに止まり、殆ど自己身心に交渉する所がない。中斎は之
がため頗る失望し、乃ち退いて深く自ら読書考察した。偶明の儒者呂坤
寧陵の人、名は坤、新吾と号す、万暦二年の進士、呻吟語を著す の呻
吟語を得て之を読み、恍然として道此に在りとなし、愛誦倦まなかつた。
其れよりして又た呂子学問の淵源する所は、王陽明より来るを知り、我
邦にては中江藤樹、熊沢蕃山の二子、及び三輪執斎の後、関西に在つて
は陽明良知の学、既に絶えたるを慨み、執斎の翻刻したる古本大学及伝
習録を取り出して精読し、心性の上に学問の工夫を用ふるを念とした。
此間の消息は又た佐藤一斎に与へた書牘中に詳述された。曰ふ、
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就 儒而問 学焉。於 是夫ノ功名気節之志乃自一変矣。而時之志。則猶以
襲取外求之功 。望 病去而心正者 。而不 能 免 軽俊之患 也。乃与
崔子鐘少年之態 適相同。而非 謂 材及 焉也。而夫儒之所 授、非 訓
詁 必詩章矣。僕偸 暇慣 習之 。故不 覚陥 於其 曰 。而自与 之化。
是以聞見辞弁。掩 非飾 言之具既在 心口 。而侈然無 忌憚 。似 病却
深 乎前日 矣。顧与 其志 径庭。能無 悔乎。於 此退独学焉。困苦辛
ノ
酸殆不 可 名状 也、因 天祐 。得 購 舶来寧陵呻吟語 、此亦呂子病中
言也。熟読玩味。道其不 在 焉邪。恍然如 有 覚。庶 乎所謂長鍼去
遠痞 。而雖 未 能 全為 正心之人 。然自幸脱 於赭衣一間之罪 矣。
自 是又究 寧陵所 淵源 。乃知 其亦従 姚江 来 矣。而我邦藤樹蕃山
二子及三輪氏之後、関以西良知学既絶矣。故無 一人謂 講之者 焉。僕
窃復出 三輪氏所 翻刻 古本大学及伝習録坊本于蕪廃中 。更稍知 用
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功乎心性 。且先喩 諸人 。於 是夫ノ襲取外求之志又既一変矣。而僕志
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遂在 誠意為 的以 致良知 為 工焉。爾来不 瞻前顧後 。直前勇往。
只尽 力于現在吏務 而已矣。以 是報 君恩 報 祖先 而報 古聖賢之教 。
不 敢譲 於人 也。
中斎は真学真修の人である。右は自己の病を治むべく、儒に入つた。
而かも当時の儒流は論弁講書にのみ馳せ、襲取外求とて、道理を経籍の
上に襲ひ取り、正心の術を身外の研究に求む、斯くて如何ぞ、我病去り、
我心正しからるべきぞ、病痛は却て前よりも重きを加へた。困苦辛酸殆
ど名状す可からずとは、中斎の告白であつた。既にして呂新吾の呻吟語
を獲て、之を愛読し、凡そ学問は自己に反省すべきを悟り、此に至つて
幸に赭衣の囚人と一間、即ち何等択ぶ所がなかつた罪を免れた。既にし
て王陽明致良知の学に契つて、天理人心の根機に帰入し、誠意を標的と
し、致良知を工夫とし、事上煉磨、即ち現在の吏務に尽すを以て全功と
なし、以て君恩祖恩及び聖賢の教恩に報じて、敢て人に譲らざらんこと
を期したといふのである。
前述せる所は、中斎の悟境である、惟ふにそれは二十四五歳の時でも
あらんか。中斎は元来聡慧にして、且つ熱烈の天質を具へて居る、故に
其の悟道も早い。陽明王子は五溺と称して、始めは騎射に、次は任侠に、
次は詞章に、其次は仙術、最後は仏教に迷ひ、三十歳にして始て儒教の
正道に復帰した。其に比すれば、中斎は実に早いと云はねばならぬ。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その26
博渉
広く物事を見聞
すること
幸田成友
『大塩平八郎』
その174
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