Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.5.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その7

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

前編 修学及吏職
 第七章 王子良知学転向 志望三変
管理人註
   

 中斎は、前項に述べたやうに、学問の必要を覚つて、儒学に志ざした、       アサ 思ふに儒書を漁ること数年に及びしならん。嚮きに句読を授かりし篠崎 応道は、七十七歳を以て中斎の二十一歳の時に歿した。其他に師を求め しや否や詳ならず、而かも当時の儒者は大抵文義を講授し、詩文を作り 書吏に博渉するに止まり、殆ど自己身心に交渉する所がない。中斎は之 がため頗る失望し、乃ち退いて深く自ら読書考察した。偶明の儒者呂坤 寧陵の人、名は坤、新吾と号す、万暦二年の進士、呻吟語を著す の呻 吟語を得て之を読み、恍然として道此に在りとなし、愛誦倦まなかつた。 其れよりして又た呂子学問の淵源する所は、王陽明より来るを知り、我 邦にては中江藤樹、熊沢蕃山の二子、及び三輪執斎の後、関西に在つて は陽明良知の学、既に絶えたるを慨み、執斎の翻刻したる古本大学及伝 習録を取り出して精読し、心性の上に学問の工夫を用ふるを念とした。 此間の消息は又た佐藤一斎に与へた書牘中に詳述された。曰ふ、             ○  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  就儒而問学焉。於是夫ノ功名気節之志乃自一変矣。而時之志。則猶以  襲取外求之功。望病去而心正者。而不軽俊之患也。乃与  崔子鐘少年之態適相同。而非材及焉也。而夫儒之所授、非訓  詁必詩章矣。僕偸暇慣習之。故不覚陥於其。而自与之化。  是以聞見辞弁。掩非飾言之具既在心口。而侈然無忌憚。似病却  深乎前日矣。顧与其志径庭。能無悔乎。於此退独学焉。困苦辛                       ノ  酸殆不名状也、因天祐。得舶来寧陵呻吟語、此亦呂子病中  言也。熟読玩味。道其不焉邪。恍然如覚。庶乎所謂長鍼去  遠痞。而雖全為正心之人。然自幸脱於赭衣一間之罪矣。  自是又究寧陵所淵源。乃知其亦従姚江矣。而我邦藤樹蕃山  二子及三輪氏之後、関以西良知学既絶矣。故無一人謂講之者焉。僕  窃復出三輪氏所翻刻古本大学及伝習録坊本于蕪廃中。更稍知                  ○  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  ○ ○ ○  功乎心性。且先喩諸人。於是夫ノ襲取外求之志又既一変矣。而僕志   ○ ○  ○ ○ ○  ○ ○  ○ ○ ○  ○  ○ ○  遂在誠意為的以致良知工焉。爾来不瞻前顧後。直前勇往。  只尽力于現在吏務而已矣。以是報君恩祖先而報古聖賢之教。  不敢譲於人也。  中斎は真学真修の人である。右は自己の病を治むべく、儒に入つた。 而かも当時の儒流は論弁講書にのみ馳せ、襲取外求とて、道理を経籍の 上に襲ひ取り、正心の術を身外の研究に求む、斯くて如何ぞ、我病去り、 我心正しからるべきぞ、病痛は却て前よりも重きを加へた。困苦辛酸殆 ど名状す可からずとは、中斎の告白であつた。既にして呂新吾の呻吟語 を獲て、之を愛読し、凡そ学問は自己に反省すべきを悟り、此に至つて 幸に赭衣の囚人と一間、即ち何等択ぶ所がなかつた罪を免れた。既にし て王陽明致良知の学に契つて、天理人心の根機に帰入し、誠意を標的と し、致良知を工夫とし、事上煉磨、即ち現在の吏務に尽すを以て全功と なし、以て君恩祖恩及び聖賢の教恩に報じて、敢て人に譲らざらんこと を期したといふのである。  前述せる所は、中斎の悟境である、惟ふにそれは二十四五歳の時でも あらんか。中斎は元来聡慧にして、且つ熱烈の天質を具へて居る、故に 其の悟道も早い。陽明王子は五溺と称して、始めは騎射に、次は任侠に、 次は詞章に、其次は仙術、最後は仏教に迷ひ、三十歳にして始て儒教の 正道に復帰した。其に比すれば、中斎は実に早いと云はねばならぬ。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その26




博渉
広く物事を見聞
すること
















幸田成友
『大塩平八郎』
その174
 


『大塩中斎』目次/その6/その8

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