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中斎二十二歳の時、祖父政之丞が歿した、年六十七である。中斎嫡孫
を以て其後を承けた。政之丞は性質勤恪にして、職務を執ること公平、
最も上下の与望を得た。其の老病起きざるを知るや、中斎を召して左の
如く遺命した。
我命既に今日に迫れり、一言耳に留らば、我遺訓に背く勿れ、夫れ人
幼にして学ぶは、壮にして之を行ふためなり。汝今より家職を継がば、
才器等倫に抽んづとも、驕慢にして人を軽侮する勿れ。抑も与力は卑
職たるも、一地方の訟獄に参与し、生殺の権を有するものなれば、一
点も偏頗愛憎の処断なく、公務を重んじ、正道を履み、名を後世に伝
へ、辱を祖先に貽す勿れ。暇日は専ら文芸武術を講じ、以て文弱武愚
の毀を免れ、積年苦学の效を顕はすべし。其余は揮て汝の心衷に在る
べし。
右の遺誡訖つて、祖父政之丞の命は絶つたと謂はる。其の厳乎たる訓
言、文弱武愚を誡めたる深旨は、政之丞の偉大を表示すると共に、中斎
の人物、祖父の教養に成るもの少からざるを知るのである。是歳中斎は、
般若寺村庄屋橋本忠兵衛の養女ヒロを納れて内縁の妻にした、時に年二
十一歳、嫁して後、名をユウと改めた。性温良貞淑にして、学芸あり、
時に中斎に代つて子弟に中庸、史記などを講じたりと。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その28
訖(おわ)つて
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