真我を信じよう
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コーチングでしばしば、

「自分に自信が持てないがどうしたものか」

という相談を受けることがあります。私がオススメするのは「真我」のアプローチです。

人間誰しも自我のほかに「真我」というのがあります。自分のなかの神の部分です。ふだんは自分ひとりで生きているように思っていますが、実際は自我と「真我」が間断なく対話をしているのです。自問自答というのがこれです。

たとえば食堂で、

「定食にしようか、カツ丼にしようか」

といった内容でも、この対話ですね。ただ全ての自問自答に「真我」を発動している、とは言えないかも知れませんが。

さて、自我には自信がなくても、「真我」には自信が持てるでしょう。「真我」は自分のなかの神の部分ですから。「真我」は宇宙に遍満する生命力につながっており、まさに神の分身なのです。

たとえばスピーチの順番を待っている時など、誰しも緊張するものです。私はこんなときこそ「真我」と対話することにしています。すると「真我」から、

「大丈夫、あがらず話はできる、私がついているから大丈夫だ」

という声をかけてもらえるのです。これで、緊張しつつも、気合一発、うまく話せるのです。

・・・という話をすると、なるほど、という反応が返ってきます。

「神を信じますか」は時としてうさんくさい。しかし、「真我を信じますか」は誰しも抵抗ないでしょう。同じことなのですけどね。世間の多くの書籍にあるように、この「真我」で常に生きる人がゆるぎなき自信のある人なのです。だから・・・

自信をつけたければ、「真我」と日々意識的に対話すればよいわけです。

ムラ社会
194



日本の会社はムラ社会です。特に大企業や役所はその傾向が強い。ムラ社会は組織としては都合が良くても、個人に多くを要求しますので、個人を幸福にするシステムではありません。

ですから、ムラ社会のメンタリティと個人のライフワークは矛盾するのです。ムラ社会に従順なだけの生活を送っていたのでは、ライフワークは持ちようがない。ライフワークを持とうと思ったら、ムラ社会に掉ささなければなりません。ある程度ムラの住民から白い目で見られることは覚悟しなければなりません。こう言えば、わかる人はわかっていただけることと思います。

つまり、ライフワークを持とうと思えば、他人の目を意識する精神構造を変えなくてはならないのです。ある意味、個人主義者になる必要があります。組織に利用されずに、かえって組織を利用するぐらいの根性も要ります。

何が言いたいのか。ライフワークを持つということは、気持ちの上ではムラ社会を卒業するということです。そうでなくてはとても個人のライフワークなど持ちようがないのです。ですが、ムラ社会を卒業すると言うのは平均的な社会人にとっては大きなパラダイム・シフトです。相当な葛藤の後にようやく卒業できる、といった代物なのです。

ところで、コーチングのクライアントさんには、当然まだムラ社会を卒業できず、ライフワークを持てない人がいます。

いかにムラ社会でやっていくかだけのコーチングでは空しいと思うのです。定年が来ればムラ社会が虚構に過ぎなかった、と思い知ること必定です。その時、きっと強烈なパラダイム・シフトをハード・ランディングという形で経験することでしょう。

パーソナル・コーチングでは、クライアントさんが、ライフワークを持てるよう、パラダイム・シフトにはソフト・ランディングできるよう、意識的に支援を広げていかなくてはならない、と考えるのです。これはお節介ではないと思います。クライアントさんが求めない、という理由でこうした側面を全く看過しているとすれば、パーソナル・コーチングの名に値しないのではないでしょうか。

夢を壊す権利
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夢を壊す権利はコーチにはありません。

ですが、時々徹底的に楽天的かつ甘い人には出会います。こういう人が独立開業したいという夢を持っているとこちらも苦しくなります。

私の第一印象、直感はそりゃダメ、話にもならん、なのですが・・・

そうは言えません。ですから、

「この点はこういう理由で難しいと思うのですが、これはどう考えますか」

というフィードバックをするのですけれど、その答えがまた甘い。もう一回、もう一回と辛口のフィードバックを返すのですけれど、その答えもどうしようもなく甘い。

自分の部下なら、「あかん、やめとこ」で済むのですが、それは言えない。

夢を壊す権利はコーチにはありません。

結局、適当なところで追及をやめ、前向きな提案、

「たとえば、〇〇してみてはどうでしょうか」

で締めくくるしかありません。これも一種のアンコーチャブルだと思います。理由は理屈で勝負できない、ということです。

究極のパラダイム



宗教とは「人間いかに生きるべきか」という一番肝心な教え、のことであるのです。たとえば、次のような言葉です。

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*いやなときにいやな顔をし、おそろしいときに不安な状態になり、腹の立ったときに怒るのは、動物にもできることだ。動物的自然心とでもいうかな。こんな心の持主にはだれもがなれるものさ。地のままでいいのだから、練習の必要もない。しかし、困ったときにも笑っていたり、いやなことにも平気でいたり、自分にひどい仕打ちをした人でも愛したりする心を持つには、修行をしなくてはならない。人間心とはそういう練習を通じて身につけるものなのだ。

*拝むのではない。いっさいを笑いと喜びと感謝で受け取る知恵のことを信仰というのだ。どんなことも、どんなものもこばまない。いっさいを神の与えたもうたものとし、神の教えとしてそのまま受け取るのだ。なるようになって結構とまかせきる感謝心で生きる。その心をもつことができれば、いつでも平静な心を保つことができる。そういう信仰をもつには、宗教の導きを受けるとよい。

*そしたら、いっさいの縁がほんとうにありがたくなり、そのままにまかせて生きる気にもなってきた。こうして心がやわらいでくると、毎日の生活が楽しくてしようがなくなってしまった。

『冥想ヨガ入門』  沖正弘著 日貿出版社 1975年 より抜粋

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宗教的悟りとは何か?これは究極のパラダイムを身につける、ということであると私は考えます。悟りはパラダイムですから、当然哲学と融合したものです。釈迦が菩提樹の下で悟った、というのも一種のパラダイム・シフトであったはずです。少なくとも「何者かを拝み頼む」ことが宗教の本分ではないでしょう。

私は何宗何教ではいっさいありませんが、あなたは宗教の教えに従っていますか、と問われれば即座に「従っています」と答えることになります。究極のパラダイムを提示するのが宗教であってみれば、どの宗教も結局同じことを説いているのです。

さて、パーソナル・コーチングも「人間いかに生きるべきか」というテーマを追求するためにやるわけです。当然の結論として「コーチは宗教的素養がなくてはならない」と私は信じていますが、おかしいでしょうか。言い換えるとコーチは「究極のパラダイム」に理解がないとダメだ、と言いたいのです。

コーチングは「なりたい自分になること」が目的で、目標設定・目標管理が云々されます。しかし、それ以前に最も大切なのは、クライアントさんが「正しい見方・感じ方」に気付いていただくこと、近視眼的に見るのではなく、より全体的な見地から新しいパラダイムを構築していただくことです。「正しい見方・感じ方」ができないがゆえに遭わずともよい災いを抱え、苦しむことになるのです。逆に「正しい見方・感じ方」をすることで行動を起こさずして問題解決がはかれることはしばしばあるのです。

パラダイムにはいろいろなレベルがあり、問題に応じていろいろなパラダイムを使い分ける必要があります。パラダイムを自由に使い分けることができてはじめて、有能な助言者になれると私は考えます。そのためには「究極のパラダイム」は押さえなくてはなりません。究極のパラダイム(=宗教的考え方)を原点に持つことによって、自由にパラダイム間を行き来できる自在性を身につけるのだと思っています。

もちろん、私は究極のパラダイム(=宗教的考え方)に常に忠実であるほど、解脱してはおりません。しかし、少なくともアタマでは理解して、一歩でも二歩でも近づいて行こうとしていますので、結構確信に満ちた助言も出来るわけなのです。

これはコーチングですから
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コーチング書籍を見ていると、たまに目に付くのが

「これはコーチングですから・・・」というコーチング例です。

「これはコーチングですから、コーチは直接答えは言えません」
「あなたは私の答えが欲しいのですか」(上記の反語的表現)

言ってることはいずれも同じで、

「これはコーチングですから、あなたが自分で考えてください」

ということです。根底にはコーチが答えを与えると、クライアントが依存する、という前提があります。

他人のコーチングのやり方を他人がとやかく言う筋合いはないのでしょうけど、私がクライアントならこの手の発言はげっそりです。ほかにいくらでも言いようはあるでしょう。たとえば、

「じゃあ、一緒に考えてみましょうか。で、何が一番の問題なのですか」

と持っていけばよろしいです。コーチングはスムーズに継続していくことでしょう。クライアントの依存体質が気になるのなら、

「私の言うことは、あなたにどんぴしゃの答えにカスタマイズする必要はありますよ。たとえば〇〇するとしたら、あなたはどうしますか」

「これはコーチングですから・・・」という発言を使わなくてもいくらでも話ができると思います。

そもそもコーチングにこだわるのは何故なのですか。コーチングの最中に他の手法を使ったらダメなんですか。単にコーチがコーチングの素養しかないだけ、ということになりませんか。もし、コーチがコンサルティングの素養があったらそれを使わず、コーチングだけで通すのが正解なのでしょうか。そうは思えません。

「これはコーチングですから・・・」とは結局コーチングする人のキャパの狭さの反映、と私はみるのです。ただそれを承知で、コーチングにこだわるというのであれば、他人がとやかくいうことではないでしょう。
200 コーチングで食べるのは最後に
199 コーチングの金銭感覚
198 心の準備
197 少人数
196 人生のキーワード

*
195 真我を信じよう
194 ムラ社会
193 夢を壊す権利
192 究極のパラダイム
191 これはコーチングですから
*
190 一緒に考えましょう
189 日曜喫茶室
188 いじめとアサーティブネス
187 齟齬の指摘
186 答えはクライアントの自助努力の中にある

*
185 私は何をしてあげたらいいですか
184 Sコーチ
183 答えを教える
182 光明と暗黒
181 アイボール・ミーティング

*
180 パラダイム・シフト
179 結婚問題
178 にっちもさっちもいかなくなった相談事
177 すべて簡単な言葉で表現できる
176 祝福と呪詛

*
175 アクセルを踏みながらブレーキ
174 コーチングは何が画期的なのか
173 コーチングの定義とは
172 コーチングは方便
171 適性はソリューション

*
170 成果報酬
169 開き直り2
168 開き直り
167 助言を受ける側の度量
166 みんなアマチュア
*
165 結婚の効用
164 面談の克服
163 失敗するかもしれないけれど・・・
162 心を明るく
161 鬱になるくらいなら周囲に迷惑をかけよう

*
160 ストレスをためない
159 組織人から個人へ
158 汲んで形にする
157 21世紀は個人の時代
156 実務はできなくても管理はできる

*
155 わかっているけど相談しよう
154 グーグルの「コーチング」
153 気を使わず、頭を使う
152 コーチングは現状からか、ゴールからか?
151 一期一会


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