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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その14

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.3 所収


朝日新聞 明治三十一年十月三日
大塩平八郎 (十七) 猪俣生

  其四 遊歴及著述(続)

是より先き箚記の成るや、平八郎ハ知己を天下に求めて其評定を得んと欲し、当時昌平黌の儒官佐藤一斎が陽明学を信ずるを聞き、大阪にある間五郎兵衛 *1 を介し、一本を送致して批評を求め、且つ添ふるに己れの系譜と、己れが学説の三変して以て王氏の学を信ずるに至りたる所以を詳記したる書翰とを以てせり、佐藤一斎ハ元と陽明学を奉ぜり、然るに寛政二年五月五日幕府異学禁止の令を下し、朱子学を奉ずる者に非ざるよりハ、昌平黌の儒官となる能はざるに至りしを以て、枉(ま)げて朱説を奉ずと称して儒官と為りたる者なり、然るに今や平八郎の其著書を送りて批評を求め、且つ書を添へて眷々の意を致すに遭ふ、之を信ぜずと云はんか自己を欺き併せて天下を欺くを如何、之を信ずと云はんか、己れの地位と食禄とを如何、是に於て彼れハ半吐半呑曖昧未了の語を記して返翰を送れり、世人は其文章を称して蛟龍(かうりやう)の雲間に(かうしやう)して東に其鰭を現はし、西に其尾を現はすの妙ありと為す、然れども吾人ハ唯彼れが語らんと欲して口囁【口需】(こうせつじゆ)するの苦境を憐むのみ、平八郎の失望知るべきなり、其一斎翁の返翰に曰く、


管理人註
*1 天文学者でもあった間重新のこと。『洗心洞箚記』は彼の精義堂から公刊された。
石崎東国「大塩平八郎伝」その57
井上哲次郎「大塩中斎」 その8
佐藤一斎の大塩平八郎に答えた書簡
大塩平八郎関係年表


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