大塩の乱 その12 |
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松 本 林 太 夫 |
松本林太夫 *1 といふ者一揆党にて、藤井清吾といへる医師の親類にて、松本寛五といへる医師の養子となり、学文の為に大塩へ寄宿して有りしが、此度の悪事に与せしか淡路町にて散々に乱れしかば、這々に逃走りて、白木綿にて鉢巻して槍を引提げしまゝ藤井方へ来りしを、早々に追出せしにぞ、詮方なくて夫より江の子島とやらんに石火矢の台拵へし大工を便り、此方に到りしにぞ、之を留置しが間もなく召捕らる。 此者十日計已前に宿へ帰り来り、かヽる催有る事故大いにいやになりて、内へ帰らんといひしか共、之を許さずして、只学問を嫌ひての事故ならんと、親の思ひ誤りて大いに叱りつけて大塩へ追遣りしといふ。不便の事といふべし。 此者を御吟味有し処、「一揆等四つ橋にて何れも刀を川中へ打込み、林太夫が抱きし今川弓太郎といへる昨年十月生れの男子をも一処に、川へ投捨て、此の処より何れも散り\゛/になりし」と、白状せしといふ。事専ら世間にて取沙汰有り、川中をさかして刀四腰と弓太郎が死骸上りしともいへり。 | |
焼 跡 の 様 子 ・ 騒 動 |
同廿三日八つ過ぎ頃より、天満の方なる焼地の様を見、焼失せし知辺をも訪はんと思ひしかば、難波橋をさして到りしに、橋の上はいふに及ばす、其辺大に群集をなす故、「いかなる事の有しにや」と其辺にて之を尋ねしに、「一人の乞食大小・金録を持ちし有、これを捕へんとせしかば大小も金も橋より川へ打込し」といふ。其乞食を追廻し、これを召捕り過書町の会所へ引行きしにぞ、何事やらんと大勢の者共其辺に寄り集れるにぞ、天満橋に大勢立留りて遠く隔りしながらに、こなたを打眺めぬる有様なり也。 予は之を行過ぎて天満の方へ到りぬるに、見物大勢にて、処によりては道はかどり難き処などありぬる程の事なりしかども、わざ\/来れる事なれば、隅々までも見尽すべしと思ひ、何処もかも見尽して帰りに、亀山の用場に立寄りしに、 此所にも徒目附・水道などいへる役のもの、其外足軽など大勢様子見届に出来れる上に、今日又松井義太夫といへる者かゝる騒動なれば、御城代へ御見舞の使者に来り、御加勢の人敷を、差出すべきや否を伺ひに出来れるにぞ、 用場詰の役人西垣丈助これを案内して、御城へ出で見附の処へ両人差控へ、御返答を相待居たる処へ、京橋の方より与力一人はだしにて息を限りに走来り、見附なる御番にて、一揆大勢只今天満橋を押寄せ来れる故、此旨御注進申候なり」と、横になりて城内へ走入りぬるにぞ、 松井と西垣面を見合せ、一揆此処へ押寄来らば定めて騒動に及ぶべし。只御返事をきく計の事に両人此処に有りて詮なし、誰なりとも一人は帰るべし」といひぬるにぞ、「然らば我れ帰るべし」とて、西垣には其様子をも見極めずして只一散に走帰りしが、帰りがけに船屋に人を走らせ、「船一艘用場の浜へ廻し来」と、諸道具を積みて逃仕度せんと其心構にて引取し処へ我も到りしが、 「先づ一揆も鎮りぬ、程なく悪徒も手廻りぬべし。最早気遣ひなし」といひしに、西垣がいふ、「只今一揆大勢にて天満橋を押渡り、御城を目掛けて攻寄する様子なり。少しも油断なり難し」といへるにぞ、「こはけしからぬ事かな。われ今天満辺を見物し、往来共に其辺を通りしに少も怪しき事なし。一陣破れて残党全からず、彼輩何程心をあせりぬればとて、再び人数を集むる事難し。こは臆病者の大勢の人をみて、左様に見誤りし者ならん」といひ説きぬれ共、彼注進の事をいひて、予がいへる事をば諾ふ色なかりしが、果して何の怪しき事もあらざりし。 「落人は薄の穂にも恐る」といへる事はあれども、かくまで狼狽へて一人の悪徒を恐れぬる例(ためし)は、昔より未だ聞かざる事なり。此一事にても事てぬかりに至りて、大騒動に及びし事を思ひやるべし。 安治川・九條・富島・江の子島・幸町など、すべて海辺に近き処は、船にて大勢攻来りて、焼討をなすとて、誰云ともなく専ら風説をなし、風の吹く音を聞けるさへ大に肝を冷して、毎日毎夜少しもまどろむ事さへなくて、大いに狼狽へ騒ぎしといふ。 十九日には火矢にて家々を焼き、鉄炮を打剣戟を振廻せる事にて、御当家始りてより此方斯かる大変これあらざれば、市中の男女大に恐れ、別けて焼立られし家々の者共は蔵を〆るの暇もなく、著の身其儘にて逃げ出でし事なれば、多くは丸焼になりしも理りなれ共、方角違にて遙か隔てし家々に諸道具を持出し、船に積出し蔵の中へ詰込み、目塗をなし閉付し道具・敷居・鴨居迄打はづし、大あわてにあわてぬる故、損ぜし道具紛失の品々も仰山の事なりしいふ。
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近 藤 ・ 荘 司 ・ 宮 脇 |
廿二日京都に於て三人切腹せし者有りしが、其首は悉くなし、隠せしと見へたり。定めて発頭人ならん。吹田の神主は神崎庄屋の裏にて切腹し、廿三日荘司儀左衛門は山崎に於て、京都御町奉行の手に生捕られ当所へ送り来りし。 近藤梶五郎は北在にて切腹し、甲山の奥・信貴の山中などに三人・五人切腹の者有り。大塩が徒なるべしなど専らに取沙汰せしが、何れも実なき浮説なりしといふ。
〔頭書〕吹田神主は大塩が弟 *2 にして宮脇志摩守といふ。大塩が落行し事を聞いて己も逃れ難き事を知りて、妻に暇を遣はさんといひしに、志摩が母親其訳を知らざれば、これを拒みしにぞ、忽ち母親を殺害して出奔せしといひしが、二日計も過て神崎にて腹を切しといふ噂なりし。
| の そ の 後 |