「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
文政九年丙戌先生三十四歳 | |
先生肺病ニ 嬰ル。 |
是ヨリ先キ先生肺疚ヲ患フ年ヲ経テ癒エズ、故ヲ以テ漸ク劇職ヲ厭フ、退テ学ヲ講シ生徒ニ授クルヲ以テ悠々自適静ニ病ヲ養ハンノ意アリ。 之ヲ以テ高井山城守ニ計リ窃ニ辞職ノ意ヲ洩ス。山城守許サス慰撫シテ止ム、
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格之助ヲ養 子ス。 |
先生又自ラ嗣子ナキヲ憂フ、即チ養子ヲ得テ退カント欲ス、之ヲ尾州宗家大塩氏ニ計ル成ラス、是ニ於テ祖母西田氏ノ甥格之助ヲ養フ。 当時大塩氏ニ送レル書ニ云フ
当時之風儀にて、或は莫大之持参物等を以被申勧居候へ共、小身者ながら 元祖波右衛門樣より当私まで血統相続仕候に、一旦勢利に被刧、不筋之利慾に迷ひ、他家の之者を致継子候ては、断絶も同様之仕義、甚歎ケ敷候。私退番迚も差急候儀にも無之、今三年許は何れ相勤不申候ては難叶云々。 按スルニ先生三十既ニ此ノ肺患アリ、自ラ欲死再三ト云フニ見レハ其ノ退職ノ意ト宗家養子ノ交渉ハ当時ニアル可シ、而モ上司ノ撫慰懇切止ムヲ得スシテ今日ニ至ル、重テ養子ヲ宗家ニ求テ得ズ、是ニ於テ格之助ヲ養フ、格之助ハ同組与力西田清之進ノ二子、青太夫ノ弟也。或ハ云フ先生三十既ニ格之助ヲ養フト、蓋シ格之助ハ祖母ノ甥ニシテ先生ノ門人ナリ、之ヲ子養セルハ未タ嗣予(嗣子)ノ謂ニ非スシテ宗家養子ノ成ラサルニ至テ初テ之ヲ養嗣子トスル也。 格之助時ニ年十六歳、名ハ尚志字ハ士行父母ニ仕テ孝、事ヲ執ル謹恪、坐作進退礼ニ習フ、文武両ナカラ先輩ノ称スル所ナリ。 |
大塩格之助 ノ人物。 |
咬菜秘記云 格之助と云ふは同組西田某か家より大塩へ養子になりし人にて通例の人物なり、然る処大塩へ参り平八郎へ対面致し候節、格之助当番の出掛、又は帰宅の砌りは平八郎へ必ず出入を告ること也、其様子を見るに如何にも養父の前にて慇懃丁寧の様子、信実養父を敬礼の体にて次の間敷居の外より謹て出入を告げ、偖貞抔へ挨拶を致す迚も平八郎の居る時は必ず敷居の外より挨拶ありて如何様に御這入候へと申ても這入らす、平八郎一言去らば這入て御挨拶申せと云はぬ中は決して這入らぬ、其恭敬の容体実に感心のことなり、或は又平八郎より先へ貞等が前へ出て挨拶する時は直に対座へ出て挨拶なり、若し初ての同道人抔ありて此方より姓名を何の某と名のりて挨拶の時は、逸々あの方よりも其通何の某様かと又姓名を復称して挨拶し、其上平八郎所へ参り何の某、何の某同道ありと一人も不残其姓名を告て通ずるなり、其体を見て貞が始て覚悟いたしたるは、如何様聖教の礼といふものは大切なるものにて、我々一家の中親子兄弟の中にては我人ともに恩愛の方優りて敬礼の方は等閑になり易きことなり、別て養子といふは素他人にして唯義を以て親となり子となるものなれば天性の肉親通りには如何様のことにてもならぬ筈なり、夫を世間にて弁へずして親子となるからは、天性肉親の父子の如くに唯恩愛のみにて親しまんと思ふより今日一事違ひ、あすは二事背いて遂には親子の間恩愛の心も日々に薄くなり、殊によれば破縁にもなるものなり、此大塩父子の如くならば如何に養子なればとて親の慈愛も日々厚かるべく、子の孝敬も月々に深かるべく、是全く礼儀の能く為す所なりと其時甚だ感服せし事なり。 是年四月四日越智高洲没す行年五十六歳、小橋中寺町梅松院ニ葬ル。 是年十月城代水野左近将監京都所司代トナリ松平伯耆守宗発之ニ代ル。 静坐偶感 洗心洞詩文
饑寒雖免愧先賢。 将求鶏犬帰吾宅。 坐向陽明古洞天。 年表参考
青池林宗気海観瀾輿地志略を著す西洋理学書の始 |
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