呂新吾先生曰。
「在 上者無 過、
在 下者多 過。
非 在 上者之無
過、有 過而人莫
敢言 。在 下者
非 多過、誣 之
而人莫 敢弁 。」
オモフ
吾意。在 下者、
非 多 過、而猶
見 誣如 此。况真
有 過悪 則必不
免矣。故在 下君
子、不 可 不 尽
心以立 無過之地
也。
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○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○あやまち○ ○ ○ ○ ○ ○
『世間では斯ういふ。上にあるものには過がなくて、下に
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あるものには過が多いと。けれども、上にあるものに必ずし
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も過が無い訳ではなくて、過があッても、敢てそれを言ふも
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のが無いからである。又下にあるもの必ずしも過が多い訳で
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は無い。時に無実の罪を被せられることがあッても、敢てそ
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れを弁ずるものが無いからである。』とは呂新吾先生の言で
わし ・・・・・・・・・・・・
ある。それに就いて吾は思ふ。下にあるもの必ずしも過が多
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からずとも、無実の罪を強いらるゝことすらある。まして、
とがめ
過があれば、悪事を犯せば、必ず其の咎を免るゝことが出来
ぬ。されば、下にあるの君子は、常に此の点に心を用ひて、
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無過の地に立たんことを努めなければならぬ。
此は恐らく、何か事に触れて、中斎自ら痛切に感じたことか
あッて、斯く言ッたに違ひない。たゞ彼自ら最後まで無過の
地に立ち得なんだことを憾みとする。
(一)呂新吾のこと前に言へり。
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『洗心洞箚記』
(本文)その94
『通俗洗心洞箚記』
その36
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