Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.1.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その63

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

九、退隠と其後の生活 (3) 管理人註
   

         そもそ  然らば山城守とは抑も如何様の器量の人物であつたらうか、大阪町奉               やう 行時代の前にも後にも、其名は杳として聞ゆる所が無いのを見れば、平 八郎の如き輔左を欠いては、水を離れた魚の如く、大した仕事の出来る                            げん 人ではなかつたらうか、併し彼の様な、平八郎を包容して其言に聴き、 其計に従つた跡を見れば、其性格は先づ直諒を以て評すべき人物で有つ たに相違ない。すれば山城守一代の大阪町奉行の治績は、殆んど功罪共 に挙げて、平八郎の負担すべき事情もあつたであらう、従つて私怨を積   ししう       ひとた み、私讎を養ひ来り、一度び自家の薬籠中なる山城守を失つては、到底 晩節を全うし得ぬ危機が、早くよりして背後に潜伏したのでは無からう か。思へば弓削新右衛門一件は、西町奉行の組下に東から手を入れたの   くわいしゆ        りく                よけつ で、魁首自刃し、余党も亦戮に就くといつても、百年の老木には余蘗が 残り易い。此間東西の間に何等か深き確執を生じた事情が無くて済まう か。平八郎隠居後にも東西両組の与力の間は悪く、それが跡部山城守の 東町奉行と為つて来任した当時に已に頂点に近づきつゝあり、跡部は東 組与力を信任せず、組違への西組の与力を招いて事を謀る次第で、将に                 なかんづく 両組の与力の組替を行はんとした。就中西組の内山彦次郎が跡部の信任 を得たが、此内山が、又最も平八郎に快からぬ者であつたといふ事実も ある。それが為に解するものは、天保八年の平八郎の挙兵は、後の大西 郷が私学校の生徒に擁せられて起つた如く、幾分東組与力の不平に擁立 されたと見らるべき節もある。                   にくまれ いまれ         ねたまれ  そし  荻野四郎助への書柬中に「爾来或人に被悪被忌、或人に被妬、被 られ   かしら    さからひ    かんさう 誹、或頭の耳に逆候事共諌諍いたし云々」と見え、一斎に与ふる書にも 「今乃ち職を辞して家居す、宜しく東行して凾丈に侍すること自在なる べきが如く然り、然して其事を遂ぐる能はざるは、又何ぞや、私讎、州             くわくくつ  すなは の内外に充斥するを以て、蠖屈して乃ち時を俟つ云々」と見え、又退隠 の年の十一月、日頃仲善くして居た玉造口与力阪本鉉之助に与へた書中                  かゝはるべき にも、「御文中、高諭之通にて成敗に可拘義には無之候、世上之俗輩 之是非は、頓着不仕候」と見える。何等か其間に余程六かしい事情の あつた事は、誰の眼にも窺はれやう。今一つ是は余りに推量過ぎるか知                       じやうそ らぬけれども、尚ほ考へれば高井山城守の養病の上も、僧侶の汚行検 挙事件の落着後間も無い事で、何等か之を急がねばならぬ必要があつた ものの如くにも想へる。



高井山城守
山田奉行を経て
大阪東町奉行に
在任期間は
文政3(1820)〜
天保元(1830)


直諒
正しくて誠意
があること




私讎
個人的な恨み、
私怨




余蘗
残った切り株に
生じる芽、ひこ
ばえ






幸田成友
『大塩平八郎』
 その104










幸田成友
『大塩平八郎』
 その181

幸田成友
『大塩平八郎』
 その174

凾丈
師に対して、一
丈ほども席の間
をおいてすわる
こと

蠖屈
将来の雄飛に備
えて慎み深く世
を渡ること

幸田成友
『大塩平八郎』
 その180


上疏
事情や意見を書
いた書状を主君
などに差し出す
こと


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