Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.28

玄関へ

大塩の乱史料集目次


『天 満 水 滸 伝』

その8

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


 ○平八郎父が病気の報知(しらせ)に故郷へ皈(かへ)る (2)

夫より七日\/の吊(とふら)ひも、いと懇切(ねんごろ)に勤め行ひ、程なく中陰果しかバ、父が跡目を相続して、町方与力と成けるが、果して林家の教といひ、父が遺言を心に修めて、行ひ正しく曲(まが)れることなく、廉直にこそ勤めける、 然(さ)れバ組中の評判よく、若手にしてハ珍しと人々申合けるとぞ、

(さて)この組中にて平八郎より上なる者の指揮にても、理に違ふことある時ハ、決して之を承引せず、只物事正直に身を慎み、謙(へりく)だり、勤に出精なしにける、

時の奉行高井山城守殿にも、是を見聞し玉ひて、渠(かれ)が秀才を尊んで、吟味方となし玉ふに、公事訴訟のことなどハ、是非の明断速かにて、此時までの公事訴訟ハ、兎角に富家ハ金銭を遣ひて、非なるも忽地(たちまち)に是となる事の往々(まゝ)ありしが、平八郎が出役せしより、自然と右等の事などなく、善悪邪正分明に、事速かに裁許になりしに、町家の者ハ其徳に懐(なづ)み、敬ひ尊みけり、

(かく)て平八郎勤役中、紀州家の領分と岸和田の領分と、公事起りてより数年に渡るも、一方ハ彼(かの)権家の事ゆゑ、夫なりに成行居しが、此度平八郎が掛りにて吟味をせしに、分明に岸和田の方利分になり、紀州方は負公事と、すら\/すら裁許に及びける、

又同組の与力にて弓削田新左衛門といふ者ありしが、性質心良からぬ者にて、公事訴訟等何によらず関係(たちさは)りて、殊に賄賂(まいない)を貪ぼり、取有まじき事ども多かりしを、平八郎が智略にて、是を見顕はし、屈伏させ、遂に腹を切せしとぞ、

又平八郎、勤仕の閑暇(ひま)は、弟子達を多く集め、武術学問を教へけるに、其徳を慕ひて、遠近より門に入る者少なからず、

(さ)れバ、今まで町与力ハ町家の贈物などにて、其際甚だ富たりしに、平八郎ハ贈物など少しも謝絶(ことはり)受ざれど、門弟等よりの贈物にて、却て外の与力よりハ其生計(くらしかた)豊かなりしと、

然れど、平八郎ハ、其齢(よはひ)三十歳に至りしも、未だ一子も儲けざれバ、門弟の中に、縁続(つゞきあひ)なる西組の与力にて、西田清之進といへる者の子を貰ひて我子とす、

是ぞ大塩格之助にて、偵(さすが)ハ養父の見立に違はず、文武に長(たけ)し天晴若者、末頼母しくぞ見えたりける、

また公事訴訟等の願ひの儀に付、密々(ない\/)頼み込の筋ありとて、宅へ来り、賄賂を遣ひ込こそ、先々より有慣習とハ言ながら、平八郎ハ潔白なれバ、天下の奉行所へ願ひ出て、吟味を遂れバ黒白の相分る儀を、宅にて会てハ裁許の障り、と面談せず、又家内の者などハ、別して会ぬ様禁じ置しと、

兎にも角にも金銀に眼(まなこ)(くら)む世の中に、平八郎一人、心と動せず、誠に是ぞ役人なり、と人々尊み敬ひけるが、不思議なるハ、其頃に専ら天下御法度の切支丹宗門の徒を見顕はしける処より、早晩(いつしか)慢心の気を発し、後々容易ならざる儀を企てし事、勢ひとハはいへ、是非もなき次第なり、

是全くハ切支丹を見顕はされたる豊田貢が、其怨魂の成す業なり、と人々噂したりとぞ、


石崎東国『大塩平八郎伝』 その30/その37/その40


『天満水滸伝』目次/その7/その9

大塩の乱史料集目次

玄関へ