Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.6.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その51

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第五章 不惜身命
 第一節 鮮血に彩られし同志 (2)

管理人註
   

 二十二日に河内国高安郡恩知村の百姓が、同村山中で武士風の縊死を発 見して、領主稲葉丹後守の役所へ届出た、東組同心与力中村四郎五郎出張 の上、厳重に検視した。それは瀬田済之助であつた。  後の三人は僧侶に変装して和州路をさして急ぐ途中、良左衛門は疲労し たので一歩も動くことが出来なかつた。それで河内国志紀郡田井中村で割 腹した。平八郎は涙を飲んでこれを介錯した。和州へ入つたものゝ、その 筋の取締が厳重なので、一歩も踏み出すことが出来なかつた。  前途が危険と推察された平八郎父子は、大胆にも元の大坂に立戻ること に決めた。さうして当分知人の世話にならうと思つた。庄司義左衛門は、 平八郎外三人を見失つたので、仕方なく天王寺村に逃げ込んだ。夜が明け て間もなく平野郷辺から国分峠を越えて、大和から伊勢路へかゝつた。一 先づ立帰つて大坂の様子を見ようとして、奈良まで引返したところを奈良 奉行の手で捕縛された。また近藤梶五郎は自分の屋敷の焼跡で自殺した。 白井孝右衛門は下寺町辺で平八郎父子の一行と別れて、杉山三平と同伴の 上、河内へ落ちた。同国渋河郡大蓮寺村の大蓮寺の隠居所にゐる伯父正方 を夜遅く尋ねた。二人は大塩派の同志になつて騒動したことを告白した。 さうして捕手に追ひ立てられてこゝへ逃げ込んだことまでを残らず、打ち 明けた。両名に同情した正方は。どうかして無事に逃がしてやりたいと思 つて種々と考へた結果、僧侶に変装なす事に決めた。両名が髪を剪むと孝 右衛門へ袈裟、頭巾、観音経一巻、三平へは袖無羽織を与へた。そこを辞 した両人は、高野へ上野へ上らずに、道を転じて伏見に向つた。けれども 二十日の夜に豊後橋の上で伏見奉行加納遠江守の捕手に捕縛された。たつ た両名を大坂へ護送するに、六十余人の御役人を尾行させたと云ふことで ある。  茨田郡次が夜、門真三番村の我が家へ婦つて見ると、瀬田済之助妻りや うが養父藤四郎、娘やす、乳母、下女の一同を連れて来てゐた。藤四郎は 剃髪の姿になつてゐた。郡次は女房ののぶと相談した結果、家内一同は親 戚の星田村庄九郎方へ赴いた。こゝで藤四郎に駕籠を雇つてやつて、済之 助一族を和州路へ向けて落した。郡次は女房と共に帰宅した。而して彼は 植主役場へ自首した。  柏岡源右衛門と高橋九右衛門とは天満橋北詰で上陸して、相談の上、高 野山真福院へ身を寄せることになつた。その夜、直に同院に到着した。翌 朝源右衛門は住職に或る事情の為に奉納すべき祠堂金を途中で遣つたから、 旅費を借してくれと頼んだ。住職は其の身上に同情して、金を三分づゝ借 した。ところがこの附近に大塩派残党捕縛の触書が廻つてゐるので、迚も 逃走は出来ぬと考へた両名は平野郷で別れて各自は支配役場に自首したの であつた。



幸田成友
『大塩平八郎』
その151

思知村
「恩知村」
が正しい







幸田成友
『大塩平八郎』
その152








幸田成友
『大塩平八郎』
その153














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これは意味不明、
不要か






幸田成友
『大塩平八郎』
その154






植主役場
「領主役場」
が正しい


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