Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.1.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その6

田中貢太郎(1880-1941)

『大塩平八郎と佐倉宗五郎』
(英傑伝叢書10)子供の日本社  1916 所収

◇禁転載◇

四 近藤重蔵と交る (1) 管理人註
  

            と し  こんなふうで平八郎は年歯こそまだ廿六歳の若輩であつたが、文武の名 声に至つては、押しも押されもせぬ大家であつた。殊に学問に於いては、 陽明学派の学者として許されてゐた。事実平八郎は如何なる碩学鴻儒にも 劣らないだけの高い見識を持つてゐた。それに生来の負けじ魂はますます 学問によつて磨かれ、それが次第に高遠な理想となつて往つた。平八郎の    いつも 塾には平生四五十人に塾生がゐるやうになつた。平八郎はもう一与力大塩 平八郎ではなかつた。陽明学派の大儒としてその名声は京大阪は云ふに及 ばず、遠く江戸にまでも伝へられた。    ころ  その比から平八郎には良い友達が出来だした。良い友達とは相手の身分                           なげう が良いと云ふやうなことでなしに、友情のためには身命を擲つても辞さな        ふんけい いといふ、所謂刎頚の友であつた。平八郎は、さうした友達が三人出来た。 それは誰れかと云ふと、まづ第一に近藤重蔵、第二に高井山城守、第三に 頼山陽、この三人であつた。                                エピ  平八郎が近藤重蔵を識るやうになつたについては、次のやうな愉快な挿 ソード つたは 話が伝つてゐる。それは文政二年二月のことであつた。当時江戸の書物奉 行であつた有名な近藤重蔵は、江戸城の楓山文庫改築の事に関して、時の                      さから 老中田沼主殿頭と意見が合はないので、それに逆つたがために、大阪弓奉   おと 行に貶されて、不平満満として大阪の人となつたのであつた。この近藤の 来阪を、手を打つて喜んだものがあつた。それは云はずと知れた平八郎そ の人であつた。平八郎は早くからエトロフの探険者として知られてゐる近 藤重蔵の人となりを尊敬してゐて、一度は会つて国事を論じて見たいと思 つてゐるところであつた。  そこで平八郎は公用にかこつけて、近藤重蔵の役宅へ往つて面会を乞ふ た。そして、書院に通されて、近藤の出て来るのを、今か今かと待ちうけ                  い つ てゐた。ところが、どうしたことか何時まで経つても近藤は姿を見せなか つた。平八郎は不思議に思つて耳を澄ましたが、広い屋敷はまるで空家の やうにひつそりとして、咳一つ聞えなかつた。それでは近藤は外出してゐ                       たそが        あたり はしないだらうかと思つてゐるうちに、だんだん黄昏れて来て四辺が暗く なつた。平八郎はいらいらして来た。


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その29

幸田成友
『大塩平八郎』
その85 


碩学鴻儒
学問をきわめた
大学者
























楓山文庫
紅葉山文庫


伊藤痴遊
「大塩平八郎と
重蔵」

鬼雄外史
「大塩平八郎


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