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と し
こんなふうで平八郎は年歯こそまだ廿六歳の若輩であつたが、文武の名
声に至つては、押しも押されもせぬ大家であつた。殊に学問に於いては、
陽明学派の学者として許されてゐた。事実平八郎は如何なる碩学鴻儒にも
劣らないだけの高い見識を持つてゐた。それに生来の負けじ魂はますます
学問によつて磨かれ、それが次第に高遠な理想となつて往つた。平八郎の
いつも
塾には平生四五十人に塾生がゐるやうになつた。平八郎はもう一与力大塩
平八郎ではなかつた。陽明学派の大儒としてその名声は京大阪は云ふに及
ばず、遠く江戸にまでも伝へられた。
ころ
その比から平八郎には良い友達が出来だした。良い友達とは相手の身分
なげう
が良いと云ふやうなことでなしに、友情のためには身命を擲つても辞さな
ふんけい
いといふ、所謂刎頚の友であつた。平八郎は、さうした友達が三人出来た。
それは誰れかと云ふと、まづ第一に近藤重蔵、第二に高井山城守、第三に
頼山陽、この三人であつた。
し エピ
平八郎が近藤重蔵を識るやうになつたについては、次のやうな愉快な挿
ソード つたは
話が伝つてゐる。それは文政二年二月のことであつた。当時江戸の書物奉
行であつた有名な近藤重蔵は、江戸城の楓山文庫改築の事に関して、時の
さから
老中田沼主殿頭と意見が合はないので、それに逆つたがために、大阪弓奉
おと
行に貶されて、不平満満として大阪の人となつたのであつた。この近藤の
来阪を、手を打つて喜んだものがあつた。それは云はずと知れた平八郎そ
の人であつた。平八郎は早くからエトロフの探険者として知られてゐる近
藤重蔵の人となりを尊敬してゐて、一度は会つて国事を論じて見たいと思
つてゐるところであつた。
そこで平八郎は公用にかこつけて、近藤重蔵の役宅へ往つて面会を乞ふ
た。そして、書院に通されて、近藤の出て来るのを、今か今かと待ちうけ
い つ
てゐた。ところが、どうしたことか何時まで経つても近藤は姿を見せなか
つた。平八郎は不思議に思つて耳を澄ましたが、広い屋敷はまるで空家の
やうにひつそりとして、咳一つ聞えなかつた。それでは近藤は外出してゐ
たそが あたり
はしないだらうかと思つてゐるうちに、だんだん黄昏れて来て四辺が暗く
なつた。平八郎はいらいらして来た。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その29
幸田成友
『大塩平八郎』
その85
碩学鴻儒
学問をきわめた
大学者
楓山文庫
紅葉山文庫
伊藤痴遊
「大塩平八郎と
重蔵」
鬼雄外史
「大塩平八郎」
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