| 大塩の乱 その11 |
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如此に気後して、其防ぎもなく天神橋を切落し、難波橋をも切らんと処々切掛けぬる処へ、天満を焼立て神君の御宮天満宮へも火矢を打掛け、十丁目筋を南へ行列を正して押来り、道筋を焼立て、天神橋を渡らんとせしかども切落しぬる故、市側を西へ下り、難波橋を南へ渡り二手に立分れ、一手は難波橋筋を南へ一手は浜側を西へ下り、中橋筋を南へ行き、今橋筋にて両方より押詰め、鴻池一統の蔵を引明け石火矢を打掛け、高麗橋へ出で三井・天王寺屋・平野屋・米屋等を焼払ひ、 鴻池にて一揆の者共金子多く奪取り、高麗橋筋・中橋筋東へ入り、長浜屋佐七といへる刀屋には一揆の者十人計り入込み、能き刀を択取り、己が刀を捨置きて去りしといふ、こは百姓の類ひにて、重たる者とは思はれず。 *1 | ||
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橋 本 忠 兵 衛 討 た る |
夫より南へ押行きしに、淡路町堺筋の辺にて、西奉行・京橋・玉造等の人数に出会ひ、双方より鉄炮を打懸けしに、一揆方の玉薬を持ちし者其辺にあらざりしにぞ、これにて手後れぬる処を、玉造口の同心 坂本源三郎 *2 といへる者、一揆方の炮術者橋本忠兵衛 *3 を打倒し、首は西御奉行の手に討取り、其外名前知れざる一揆両人、内一人は御鉄炮同心開地庄五郎打留しといふ。 西御奉行には進んで自ら手下す勢ひなりしにぞ、家来是に励まされ、両三人も一揆を生捕られしに、東御奉行には始終逃廻られしといふ。
〔頭書〕東御町奉行跡部山城守殿は、御老中水野左近将監殿の舎弟なりといふ。夫れ故大に威光をふられしにぞ、自ら与力・同心など恨みを含むやうになりしといへり。
此度の騒動にて大いに震ひ恐れ、玉造与力岡翁助と云へる者に同心引連れ加勢致しくれ候やう頼まれしかども、「私の計ひになり難し」と答へし故、御城代へ仰上げられ、御沙汰のうへ玉造にて与力四人・同心三十人、京橋にても同断、御借人となる。
大塩が徒難波橋筋を渡り、一手は淡路町へ出でて西御番所を目当とし、一手は高麗橋を渡りて東番所へ志し、何れも石火矢・鉄炮を打立て進み来しに、松山町の辺とやらんにて東御奉行と一町計りを隔てぬる程に成りしにぞ、大に震ひ恐れて居られしに、鉄炮の音に驚き忽ち落馬せられしより、附従へる家来を始め、加勢に来り之に附添ひし京橋口の与力・同心其儘に崩れ立て逃行きぬ。奉行には漸々起上り馬に乗りて、命から\゛/がら逃られしと云。世間にて散々の悪評判のみなりし。 亦京橋口より騎馬にて馳来り、大勢の人数引連れながら鉄炮の音に驚き、わな\/慄出し、「我等は京橋口を固むる役の者なれば、此処にて 戦ふとも詮なし、之より引取ん」とて逃去らんとするにぞ、これに附添へる者共、「せつかくに町奉行に頼まれ此所へ出張しながら、此儘に引取ては後日の申訳なし。退くべからず」とて従はざる故、拠なく馬を立てゝ控へし処へ、鉄炮の音頻に響きぬるに驚き落馬せしにぞ、 何れも此人打殺されしと思ひ誤りて、散々に逃失せしにぞ 此者もやう\/と起きて這々逃去りしと云ふ。 斯くて一揆方には頼切つたる火術の先生を討たれ、外にも両人打殺されしに驚きしにや、火矢・玉薬・具足・鉄炮・槍・刀・【金巣】・帷子等を其辺にてあちらこちらの井戸の中へ打込みて、群集せし騒動に紛れ、散々に逃げ失せぬ。 此方にでは一つの切取りし首を槍先に貫き、「一揆の張本人を討取りたり。何れも安心せよ騒ぐ事なかれ」とて走廻りしといふ。僅か三人鉄炮にて打殺され、夫にて一揆乱散りしにて、其始臆して手後となり大変に及び、諸人のかヽる難渋となりぬる事思ひやるべし。 かゝる大騒動に及びぬれ共、一揆共格別に人を損ずる事なく、何れも老人・足弱を引連れ、帳面其外大切なる書類を持ちて、「早く立退くべし。遅き時は過ちあらん」といひて人を退け、夫にて退かざる者あれば、鉄炮・槍・刀にて追廻し、悉く人を払ひて焼立てしといふ。鴻池・三井等にては大勢の人数故逃後れたるたるもの多かりしといふ。故に死人・怪我人の沙汰をばあまりに聞かざりし。 | |
先此騒動につきて、町奉行に人少なりとて、「玉造・京橋等の同心を貸し給へ」との御頼にて、何れも人数引足らず、あちらこちらと双方へ走廻り、十九日朝より廿日朝迄夜通に走廻り、漸々と廿日の五つ頃に至り、わが家も定めて焼けし事ならんと思ひて、家に帰りしに、思の外無難にて、遠方の者共大勢集り居て、道具夫々に取片付あるを見て、心少しくゆるみしや、気を失ひて打倒れしにぞ、直に水薬等を用ひて漸々と蘇生(よみがへ)りしが、又直に走出で此方彼方と走廻り、其夜も夜通をなし、只今一寸帰り来りし故少しまどろめと休ませしに、直に寝入て他愛(たわひ)なし」といふ。 大小・鉄炮などあそこ此処に打捨あり、淡路町にて橋本を鉄炮にて打留しは庄五郎なり。仲間中の評判にも、家柄程有て大なる手柄也とて、大に誉られしとて自慢咄をなす。。この庄五郎は今宮村庄屋羽柴何とやらんいへる者の子にして、昨年此家の養子となりし者にて、十八歳位也。され共世間にても専ら、坂本源三郎が橋本をば打留し事を専らいひ、当人も外にて其事を慢じ語れば、庄五郎が打ちしは余人なるべし。 | ||
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帯 刀 者 の 通 行 を 禁 ず |
又門徒寺へ嫁ぎける婦人其側に在りしが、「此様子なれば少しも油断なり難し、此上騒動に及ばゝ御家内を引連れ、私方へ御出なさるべし。御圍ひ申べし」と真顔になりていひくれしも、あわてたる事ながら真実の事といふべし。 〔頭書〕庄五郎母のいふ、「今日より何れも甲冑を著候やう」、昨日被仰出しか共、今朝俄に「先づ今日の処は見合すべし。町家のもの共恐れて騒ぎ立つべし」との御触なり。何れも十九日より走廻り労れたり、只さへ働き六ケ敷きに、此上具足を著ては働きなり難し、いかゞせんとて、何れも之をくやみ居たりしに、やめになりて大に安心せしと、真顔になりて咄しぬる。をかしき事なりし。
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