Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その23

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第五節 門弟及び同志の略伝 (2)

管理人註
   

 左に掲げる門弟は騒動の時、同志となつて働いたものである。 白井履――字は尚賢。彼は松浦誠之と共に平八郎が、天保二年六月に江州  小川村に中江藤樹の遺蹟を研究すべく赴いた時、随従した。これはおそ  らく守口町に百姓の傍、質屋を営んでゐた白井彦右衛門の父孝右衛門の  事であらう、孝右衛門は文政八年、三十七にして入門した。大塩邸に対  して、金銭上の融通をした。その子なる彦右衛門も、まだ幼年の時には、  洗心洞塾に寄宿してゐたが、憂鬱症にかゝつたので読書も出来かねて退  塾した。 橋本貞――字は含章。これは恐く般若寺村庄屋橋本忠兵衛の事であらう。  忠兵衛は高五十石の田畑を所待してゐたと云へぱ随分の大百姓で、平八  郎の妾ゆうの仮親、格之助の妻みねの実父である。孝右衛門と同じく金  銀の融通をした。 渡辺漸――字は正邦。これはおそらく東組同心渡辺良左衛門の事であらう。  騒動の時は、四十一二歳であつた。平素は温厚篤実の人であつた。それ  が、かやうな行動をとつたので、彼を知つてゐる者は驚いたと云ふこと  である。 志村善継――字は周次『周二ともある』。通称刀之助。『原本に刀之助と  も力之助ともある。』江州小川村の医師で、時折、出阪しては大塩邸に  寄寓した。彼も大塩邸へ物質的援助をした一人である。 大塩尚志――字は士行。通称格之助、平八郎の養子。実は東組与力西田青  太夫の弟で、騒動の時は二十七歳であつた、彼を門弟の中にあげるのは、  おかしいが、『孝経彙註』の巻末に姓名が出てゐるので、便宜上こゝに  掲げたのである。 瀬田済之助――東組与力。豊田貢派事件の時、平八郎の相談役瀬田藤四郎  の養子で、騒動の時は僅かに二十五歳であつた。 小泉淵次郎――東組与力。郡山藩主柳沢甲斐守家来、青木弥之助の甥、天  保三年、東組与力小泉忠兵衛の養子となつた。騒動の日、町奉行所で斬  られた。その時十八歳であつた。 庄司義左衛門――東組同心。元来は河州丹北郡東瓜破村百姓助右衛門の子  であつた。文政四年摂州住吉郡堀村百姓久右衛門事茂左衛門の養子とな  つた。同人の実家といふ名義の下に、同年八月、再び東組同心庄司百蔵  の養子となつた。文政七年、二十七歳の時、平八郎の槍術の門弟となつ  て、学問上のことは、天保三年から教授された。 近藤梶五郎――東組同心。近藤鍋五郎の子であつた。騒動の時、四十歳で  あつた。 平山助次郎――東組同心、文政三年の十五歳に見習勤になつた。翌年平八  郎方へ入門した。天保七年に町目附に登進した。 吉見九郎左衛門――東組同心。本姓林氏と同じである。東組同心の家柄が  あつた。文政十一年の三十八歳に入門した。 河合郷左衛門――東組同心。河合善太夫の子である。見習勤中に、即ち天  保八年正月二十七日に三男謹之助を連れて出奔した。 竹上万太郎――弓奉行、上田五兵衛組同心。文化二年の十七歳の時、兄の  熊三郎が病気につき、その養子となつて職を継いだ。騒動の時、同心小  頭を勤めてゐた。幼少から平八郎と懇意で、文化十一年頃に入門した。  守口町白井孝右衛門の縁者であつた。



幸田成友
『大塩平八郎』
その91

石崎東国
『大塩平八郎伝』 
その53

小川村に行ったのは
天保三年


















幸田成友
『大塩平八郎』
その92





















幸田成友
『大塩平八郎』
その93




























吉見九郎左衛門
「九郎右衛門」が
正しい







幸田成友
『大塩平八郎』
その94


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