Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その22

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第五節 門弟及び同志の略伝 (1)

管理人註
   

 門弟は大概、十四五歳から三十一二歳であつた。その主なる受業生を上 げて見る。 宇津木靖――字は共甫。号は静区。通称は俵二、また矩之允。彦根藩老臣  宇津木下総の弟。同門松浦誠之、湯川幹と共に『大学刮目』に訓点を施  した。『剳記附録抄』には共甫の詩二首を抄録した。また『答人論学書』  には『答宇津木共甫心理、再答宇津木共甫』が出てゐる。天保  五年に入塾した。その後、長崎に遊んだ。騒動の当日、大塩邸で殺害に  遭遇した。 松本乾知――字は道済、細字を巧に書いた。『剳記上卷』の『或問、空虚  聚語』の『序語附載』並に『孝経彙註』の序は此の人の筆である。松浦  誠之、但馬守約と共に『剳記』を点校した。尚、天保六年版の同書には  跋を書いてゐる。 松浦誠之――字は千之。『刮目及剳記』校訂者の一人である。『天保六年  版』の『剳記』には誠之の跋がある。大塩に私淑すること、凡そ十年と  云へば、門人中でもかなりの古顔であつた。『答人論学書』には『答  大塩尚志、松浦誠之、但馬守約、湯川幹問』の一篇である。大塩派の  『裁許書』中には無罪の部で東組同心松浦光三郎の名が見へるが、おそ  らくは誠之同人か、又はその親戚であらう。 但馬守約――字は直養、『剳記』点校者の一人で、また、『剳記』の版下  は彼の筆によつたものである。 湯川幹――字は用誉。『大学刮目』訓点者の一人で、天保六年版の『剳記  跋文』によると、彼の門にあること僅に一年である。『大日本教育史料  巻五』に湯川麑洞。名は新、別の名は浴。字は君風、紀州新宮の人、洗  心洞塾の塾長たること、数年と云へば、或ひは彼と同人かも知れない。 磯矢信――字は子行。天保八年版の『大城袖鑑』東組与力中磯矢頼母の名  がある、頼母は平八郎の門人なること、跡部山城守の書取に明白である  が、信と同人であらう。 岡本維純――字は大仮。『履歴未詳』 分部復――字は天行。『履歴未詳』 荻野四郎助――東組与力荻野勘左衛門の忰。 吉見英太郎――九郎右衛門の忰、天保二年三月、十歳で入門寄宿した。 半倉偵次郎――玉造口与力。騒動を、天満の火事と思つて、その見舞ひに  大塩邸へ駈けつけたことが『咬菜記』に載つてゐる。 木村熊次郎――摂津東成郡猪飼野村木村権右衛門の忰。 塩谷代蔵――天満今井町造酒業市郎次の忰、天保四年正月入門寄宿した。 民次郎――姓不詳。『原本に民次郎とも民太郎ともある』勢州山田前之町、  医師寛仲の忰。 周平――姓不詳。紀州下里村。 大河内龍太郎――水戸殿医師玄成(玄来か?原本不明)の忰。 服部末次郎――高槻藩主永井飛騨守家来服部奥助の忰。天保七年正月に入  門寄宿した。  幾代蔵以下五人は吉見英太郎、河合八十次郎、堀井儀三郎、志村周次と 共に天保八年二月頃、旧塾にゐた者で、民次郎、周平の両人は、二月十六 日に退塾した。幾代蔵、龍太郎、末次郎等の三人は騒動の当日、手に手を 取つて逃走したとある。年齢は未詳だが、評定所の吟味書には『幼年』の 二字が出てゐる。 柘植牛兵衛――永井飛騨守の家来であつた。天保七年十月、平八郎を招待  して『書経』の講義を聴いたことがある。所持の百目筒を平八郎の望み  に任せて、刀一腰、唐画一幅等で交換した。


幸田成友
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その16










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その92










『大城袖鑑』
『大坂袖鑑』
が正しい







幸田成友
『大塩平八郎』
その93


半倉偵次郎
「米倉偵次郎」
が正しい

坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その15

塩谷代蔵
「塩谷幾代蔵」
が正しい

幸田成友
『大塩平八郎』
その95


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