幼い相手のコーチング
505



母親の子供に対するガミガミの物言いはどこの家庭でも散見されます。

たとえば、こんな感じです。我が家でもあります。

「○○ちゃん、早くお風呂に入りなさい、何度言わせるの」
「○○ちゃん、早く学校へ行きなさい。遅れるでしょ」
「○○ちゃん、早く靴下はきなさい。さっきから何をぐずぐずしてるの」

こんな言い方をすると、子供でもすねたりむくれたりします。

しかし、私はこうはいいません。

「○○ちゃん、早くお風呂に入ろうよ」
「○○ちゃん、早く学校へ行こうよ」
「○○ちゃん、早く靴下はこうよ」

こう言うと子供も素直なもので、

「うん、わかった」

と言います。お陰で子供は絶対私に突っかかったり、口答えしたりしません。私に対してそういうことをするのは「場違い」の雰囲気はあると思います。こうなると、子供はいつも敬意と親しみを持って私と接してくれます。

これは何でもない簡単なことなのです。でも世間一般の人はこんな簡単なことができない。我が家の奥さんもできない。

これは「勧誘・提案」という外的コントロールを避けるテクニックです。「勧誘・提案」なので、指示・命令ではありません。だから相手には選択の自由があるのです。

幼い子供は人の問いに答える能力には限度があります。だからこうして答を与えつつ、選択の自由も与える。そうすればうまく行きます。幼い相手のコーチングには、質問よりも「勧誘・提案」が向くのです。

外的コントロールの生んだ悲劇
504



外的コントロールは通常はコミュニケーションの問題と理解されていますが、はなはだしい場合は暴力がついて回ります。

たとえば、織田信長は明智光秀の言ったことが気に入らないと言って、森蘭丸に命じて軍扇でこの重臣を叩きすえたりしました。それが元で光秀は謀反を起こし、信長は本能寺で落命することになります。信長と言えば、日本の歴史上の大天才ですが、人間理解に関しては聡明にはほど遠く、子供以下だったと言えます。

後日謀反を起こした光秀は秀吉に討たれ、光秀の一族郎党も滅ぼされますが、そのときに秀吉は、

「信長公も家臣を慈しまれたら、かかる悲劇はなかったであろうに」

と嘆いたと言います。外的コントロールが引き起こした悲劇と言えましょう。

だいたい暴力という物理的な外的コントロールを駆使して、相手を思い通りに動かすというのは、人間を動物並に扱っていると言うことです。人間として最も低級な状態というしかありません。こうした蛮行には救いようのない結果が待ちうけているのは当然でしょう。

身近なところでは過日、進学校に通う息子が医師の父親の体罰を恨んで家に放火し、母親と弟妹が死亡したという事件がありました。この父親は息子に勉強を強要して何年も暴力を振るい続けて来たと言います。新聞を読んだ人は、「何とバカな父親か」と思うかもしれません。

民主化教育以前の状況を少々垣間見てきた筆者に言わせれば、おそらくこの父親の育ち方に問題があったのだろう、という想像はある程度つきます。

私事になりますが、1970年当時小学校6年の私は、中学受験のための進学塾に通っていました。ここの塾はスパルタ教育で有名でしたが、多数の合格者を出すというので、満員の盛況でした。

今では想像すらできないと思いますが、ここの塾では問題が解けなかったり、とんちんかんな答をすると60ちかいオッサンの教師が生徒を殴るのです。本でアタマをどついたり、平手打ちを食らわしたり、ひどい場合は生徒の頭を黒板に叩きつける、ということをやってました。はっきり言って他の生徒が暴力の餌食になっているときは、見ているほうも生きた心地がしませんでした。私は学期の中途で入塾し、ついて行くのに苦労したこともあって、極めてよく殴られた口です。2〜3日に一度殴られていたと思います。

教育法もまるで出鱈目で、このオッサン、関係のないところでも子供に手を出していました。自身は塾の教師をしていて、社会的地位が低いことに強烈なコンプレックスを持っていた様子です。私がある時、国語の授業で「地位・身分が低い」という言葉を使って答えたところ、

「オマエは社長の息子だと思っていばるのか」

と小突き回されたことがあります。実家は社長と言ったって中小企業に過ぎず、もうむちゃくちゃというか、偏執狂です。ベートーヴェンの父親というのはこんな感じか、と言えばおおよそのイメージをつかんでいただけると思います。もちろん父兄参観なんかもあったのです。しかし、親は中学受験のために、アタマを下げてまでわが子をこんなひどいところに通わせていたわけです。

1970年と言えば、当時「巨人の星」が放映されていました。「根性」という言葉がもてはやされた当時の社会から言えば、スパルタ教育は多少抵抗あったとしても、十分受け入れ可能なことだったのです。

ただ恐怖感に駆られて必死に勉強したというのは、事実ですし、授業は毎回緊張感で張り詰めていてピリピリしていました。たしかに受験には勝てるかもしれません。しかし子供らしい幸福にはほど遠いと言わざる得ません。そしてこうした教育を受けて育ったら、おそらく外的コントロールこそ正しいことで、それを行使するのに何の疑問も持たないに違いありません。

あの父親は息子が放火するまで外的コントロールから目覚めなかったのでしょう。まことに不幸なことというしかありません。

農民と狩猟民
503



世間の人を見ていると2通りあります。それは、従順に与えられた仕事をするだけの農民としてのセンスしかない人と狩猟民のセンスがある人です。平均的な日本人ははっきり言って農民です。

農民のセンスしか持たない人は、汗水たらして与えられた仕事をしていないと罪悪感があって、落ち着きません。そのため、平均的な日本人は雇用されて働く道を選びます。しかし、これだけでは他人に使われて一生を終わることになります。

日本では狩猟民的センスを持つ少数のものが、大勢の農民を支配していると言えます。単に人に使われていたくなかったら、どれだけ狩猟民的センスが持てるかがポイントです。

たとえば、建設現場の現場監督を考えてみてください。一応作業服は着ていますが、作業は一切しません。一見ブラブラしているようにさえ見えます。しかし、この人がいることで、いろいろな業者がやってきて、仕事が着々と進んでいきます。またそうして目を光らせているからこそ、業者も手抜きをせず、真面目に働くわけです。

何の作業もしないからといって、いないと現場の作業は全く進まないに違いありません。これは現場監督でなくても、船の船長でも、会社の社長でも同じです。作業をするのではなく、プレゼンスで他人に仕事をさせるわけです。

このようにプレゼンスで仕事をしようとすれば、なめられないだけの人格が必要です。そして具体的な仕事をせずにいることに変な罪悪感を持たないことです。ひと言で言って農民のセンスではダメで狩猟民のセンスがいるのです。

事業を起こす起業家といった人は例外なく狩猟民的センスを持っています。

さて私は、コーチングをやっていていろいろな方の職場の対人関係の悩みを聞きますが、はっきり言って、多くの問題の出口は農民的発想を捨てることにあると思います。

たとえば、上司からきつく言われた結果、落ち込んで悶々としているとすれば、それはその人が農民である証拠です。狩猟民のセンスを持てば、単に自分が農民として使われるだけのことに汲々としているのがアホらしくなることでしょう。

コーチングの社会通念
502



ご存知のように、コーチングには個人相手のパーソナル・コーチングと職場の上司・部下のビジネス・コーチングがあります。混ぜて考えるとややこしくなります。

パーソナル・コーチングは主としてコーチングで起業したい人が興味を持つ分野です。世間の8割の人はコーチングというとビジネス・コーチングのことと理解し、パーソナル・コーチングはとくに必要ないのが実情です。

世間一般のビジネス・コーチングの理解にも2通りあり、

@コーチングとは意欲を引き出すものである。
Aコーチングとは発想を引き出すものである。

なのですが、ビジネス・コーチングの9割は@です。つまり答は自明のことで、上司は部下からコーチングを使って意欲を引き出たい、というニーズが大半です。基本的には上司が発想し、部下は細かいところで「工夫」する程度の発想で十分であるからです。

すなわち日本ではコーチングの本流は部下の意欲を引き出すビジネス・コーチングであり、マネジメント手法のひとつです。その意味でのコーチングというのはあくまでマネジメントを補完する一手法に過ぎず、マネジメント全体から言えば枝葉末節です。

ただコーチングという言葉がブームになったお陰で、世間の人はマネジメント全体で考えずに会話術という側面だけで、コーチングを単独でとらえる傾向があります。

コーチングという言葉に対する社会通念が軽薄なのはこうした背景に起因するのではないかと思っています。

満足のズレ
501



プロ・コーチを目指す私のクライアントさんが相互コーチング.jpで実習相手を見つけてコーチングしたのだがうまくいかなかった、と言われます。

コーチングしたテーマは「クライアントが満足しても、コーチが満足できないことがある。どうするべきか」という内容だったそうです。

その、クライアントが満足していた、というのはホントなの、あなたの思い込みじゃないの、と突っ込みたいところですが、百歩譲って、クライアントは満足していたとしましょう。

相手と自分の満足感のズレはコーチングに限ったことではなく、社会生活の随所で見られます。たとえばコンサートで、演奏側がイマイチの演奏と思ったのに聴衆が沸いた、といったようなことはよく起こります。少なくとも、

「相手が満足してるんだからいいじゃない」

だけではダメだから、こんな話が出てきたのでしょう。

相手の満足だけでやってると、迎合に走りがちだし、自分の満足に固執すれば、それこそ「自己満足」になってしまいます。ではどうすればいいのか。

たとえば釈迦が凡人に説法したとして、満足のズレは絶対起こるでしょう。釈迦が相手のレベルに合わせずに本気で説法すれば相手はおそらく理解できないと思われます。理解させるためにレベルを合わせます。その行為は方便と呼ばれます。

相手のレベルに合わせた結果、ここはこういう言い方にした、こういう持っていき方にした、ということです。コーチングの場合は、「こういう言い方にした」「こういう持っていき方にした」という「方便」に関して、自分として満足できたかどうかが肝心、ということなのだと思います。

もちろん相手の満足が第一、しかし満足のズレの理由を冷徹に分析すべし、ということです。そして自分がつかった方便に自分として納得がいけばそれでよし、納得できなければさらなる研鑽を積むべきだ、ということでしょう。

すべて相手あってのことですから、絶対的なサービスの良し悪しよりも方便の質が大切だと私は思います。方便の質に満足できれば、コーチとクライアントの満足のズレは起こりえない、と私は考えるのですけど、いかがでしょうか。
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