コーチングも選択肢のひとつ
840



体験コーチングでたまにいただく文面で、おそらくコーチングと全く縁のなかった人が、

「脱サラしたい。ついてはコーチングも(脱サラ後の)選択肢のひとつ」

と書いて来られることがあります。

「でもしか」でコーチングをやりたいと言われても、正直相談に乗ろうという気にはなりません。せめて、

「コーチングで独立したい。どうすればいいか」

くらいまで志を追い込んで欲しいところです。しかし、コーチングで独立したいという人が、これから勉強を始めます、ではやはりおかしいでしょう。

私のところに連絡をいただくなら、

「コーチングの勉強を始めたい。相談に乗って欲しい」

くらいが妥当ではないかと思います。

とにかく、コーチングを学んだこともない人が職業にしたい、と言ってのけるのは困ったものです。全く経験がないのに職業にしたい、そういう発言をする時点で「見込みなし」と判定しても、あながち間違いでもなかろうと思います。

コーチングにもったいをつけるためにこんなことを言うのではないのです。職業にしたい、と他人に言うのなら、それなりの経験があって然るべきです。常識で考えても、何でも同じはずです。

役回り
839



野球をやる限り、誰だって4番バッターになりたいし、宝塚歌劇に入ったら、誰だって主役になりたいはずです。これは動かしようがないでしょう。しかし、4番や主役は一人だけ、他は下位打線や控え選手、脇役や端役に甘んじなければなりません。4番や主役になれない人で、4番や主役になりたい、と日々思わない人はいないでしょう。

では4番や主役になれないのは本人の責任なのか、本人が悪いのか。そんなことはないはずです。4番や主役になるのは運と成り行きです。たとえば今4番や主役の人でも、もしより強力なライバルがいたとすれば、4番や主役になれなかったでしょう。

4番や主役になれなくても、それなりの処し方があり、それなりの貢献のし方があるわけです。全員が4番や主役になれない以上それしかありえない。

ある若い方の相談を受けました。言ってることは、職場で4番の人に見劣りしない活躍をしたいが、現状では自分の職務経歴から言って無理。そのため、日々劣等感にさいなまれ、くやしい思いをするのだそうです。たいへん負けん気の強い方のようです。

私はこう申し上げました:

「あなたは今の状態が不本意なようですが、横で聞いている限り、ごく当たり前のよくある話だと思えるのですが、どうですか」

「・・・・・・」

「4番でないのはこの際仕方がない。今自分にできることを精一杯やるしかないわけでしょう?」

「・・・・・・」

「職場で4番かどうかは、今直面する大きな問題のように見えますが、長い人生からしたら大したことはありません。また状況も変わると思いますよ」

「・・・・・・」

「あなたの人生の志は?」

と問うてみたら、

「今の職場で活躍すること」

なんだそうです。その言やよし。将来志はまた変わるでしょうが、それは変わってから考えればいいでしょう。

「4番や主役になれなくて当たり前なんですよ」

と言ったら、

「考え方が少しは整理できました」

という答が返ってきました。この人には今のところコーチングは必要ないでしょう。こうした内容で私に連絡を取ってくること自体、十分過ぎるほどモチベーションが高いと言えるからです。

加点主義・原点主義が人生の分かれ道
838



相手をゆるす加点主義

相手が批判・叱責に訴えれば、ほぼ同時に必要になるのは、「相手をゆるす」という気持ちの整理です。と言って、そんなトラウマを受けているのに、相手を肯定することは不可能です。できることはただひとつ、相手に対して「期待感を捨てる」ということです。つまり、

「相手は○○でなければならない」とか
「相手は○○すべきである」

といった考え方を捨て去り、

「あれはああした人なんだ。他人のありようは自分の問題ではないし、しかたないな」

と考えることです。この気持ちの整理も減点主義をとるかぎり不可能に近いでしょう。もっとやさしく言ってほしい、目上なら目上らしく振る舞ってほしい、上司ならいざという時には責任を取って欲しい、と思っている限り、相手に対する批判は止まりません。加点主義を取ってはじめて、包容力のある気持ちの持ち方ができるわけです。

その結果、批判・叱責に訴えてきた相手との人間関係も、悪くなってもなくなってしまうことはありません。ほとぼりが冷めたらまた何事もなかったように継続できます。職場の人間関係、親族・家族などの身内との人間関係は、「この相手をゆるす」という行為が必要不可欠であるわけです。批判・叱責を受けたら、ポイントは、

相手に対して期待感を捨てる

ということなのです。しかし、世間の多くの人はこれができません。昔の私もそうでした。そして私自身、たったこれだけのことを悟るのにずいぶん長い年月がかかりました。

まとめると、批判・叱責を受けたときの気持ちの整理とは、他人をゆるす、ということです。基本理念は加点主義です。減点主義だとこうした気持ちの整理がまず不可能です。その結果、自分が承認できず、相手との人間関係も断絶し、孤立を深めて一層自己嫌悪におちいる悪循環が待ち受けていることでしょう。ところが加点主義だと、自他ともに被害最小で受け流せるわけです。ですから、

加点主義こそ生きていくうえの知恵

と言っていいでしょう。その人物の精神的成熟度のバロメーターであるとも言えると思います。

減点主義から加点主義へ

人間幼いときは、すべて自分中心でものごとを理解します。たとえば、お母さんは自分のめんどうをみてくれる人、お父さんは日曜日に遊んでくれる人、お隣のオバサンは優しいが、近所の友だちは意地悪だ・・・といった具合にです。しかし、成長するにしたがって、これらの人々はすべて自分と同じ人間なんだ、だから他人の身になって考えなければならない、ということを学習します。

ところが、他人の身になって考えなくてはならない、というのが頭ではわかっていても、これは結構難しいことです。たとえば「人見知り」という現象があります。その多くは子供や若者に見られます。しかし、大の大人でも人見知りする人はずいぶん多いものです。たとえば掃除のオバサンといった人に、全く人見知りしないという人は、よほど修養を積んだ人です。たいてい多かれ少なかれ、人見知りしています。

どうして人見知りするのか、それは「自分が付き合う人はかくあるべし」という理想像があって、掃除のオバサンの年齢・人格・境遇がその理想像からかけはなれているからです。つまり理想像からの減点主義でこのオバサンを見ていると言えるわけです。

しかし、修養を積んだ人は、「同じ人間じゃないか」という視点から、掃除のオバサンと何らかの接点を容易に見出します。つまりゼロ・ベースの加点主義で接することができるわけです。こういった人は心も温かく、オバサンになにかといたわりの言葉をかけたりするものです。

また加点主義は優しさと同時に強さも併せ持ちます。たとえば、上司があなたに仕事を依頼したが、あなたは忙しさのあまり、その上司の依頼をうっかり失念したとします。その結果、その上司があなたを口汚くなじった、としましょう。この場面で減点主義を取ると、「あの上司は許せない」となります。

しかし、加点主義なら、「あの上司はああした人なんだ、しかたなかったな」となるわけです。これは加点主義は健全な絶望感から出発しているので、上司に対して変な期待感がないからです。

どちらがダメージが軽く、尾を引かないでしょうか。それはもちろん加点主義のほうです。以上から次のことが言えるでしょう。

・減点主義は思いやりに欠けるが、加点主義は思いやりがあって温かい
・減点主義はストレスがたまりやすいが、加点主義は打たれ強くタフである
・人間理解が減点主義か加点主義かは精神的成熟度合いのバロメーターである


減点主義の人は、包容力に欠けると言っていいと思います。加点主義ではじめて、老若男女の幅広い年齢層に対して包容力ができるわけです。その意味では、加点主義の人間力はすべてのマネジメントの前提条件と言えるわけです。

加点主義とあげまん

「あげまん」「さげまん」という言葉があります。夫の運気を上向かせる女性があげまんで、下降させる女性をさげまんというわけです。世間ではこれを単に相性でとらえる向きが多いのですが、決して相性だけの問題ではないはずです。結局、その女性の夫に対する人間理解が加点主義か、減点主義かに尽きる、と私は考えています。なにせ、あげまんは、

「あんたはすごい」
「あんたならやれる」

という承認を一生涯吐き続けてくれるわけです。さげまんはその逆で、

「あんたなんて最低」
「あんたはなにをやらせてもダメね」

という批判を一生涯吐き続けるわけです。これは人生勝負あった、にならなければおかしいでしょう。

誰しも長所・欠点を併せ持っています。加点主義的な人間理解は正しいし、減点主義的な人間理解も正しいのです。単に長所に着目するか、欠点に着目するか、だけの違いです。加点主義的な人間理解にせよ、減点主義的な人間理解にせよ、人それぞれの立場からはその理解に至ったいろいろな理由があることでしょう。

しかし両者の違いは光と闇のようなものです。加点主義の人間理解ができる人は、相手の長所を容易に見出して承認できます。ところが減点主義の人間理解しかできない人は、何かと相手のあら捜しをして批判するわけです。

加点主義なら相手の長所の承認
減点主義なら相手の欠点の批判


これ以外のありようはないでしょう。その結果、加点主義の人間理解ができる人は承認した相手から同じように承認されて、円満な人間関係を築き上げます。減点主義の人間理解しかできない人は批判した相手から同じように批判されて、殺伐とした人間関係を築くことになるわけです。各自はそれぞれの人間理解に従って、その内部から自分自身の人間関係を築き上げているのです。

しかし、この人間理解の相違がその人が繁栄するか、不遇に終わるかの分かれ道なのです。加点主義の人は多くの人脈に恵まれて何かと援助や引き立てを受けます。その結果、その人を取り巻く一切を繁栄の道連れにするわけです。一方減点主義のは人脈に恵まれず、何かと割を食うわけですが、その人を取り巻く一切を不遇の道連れにするわけです。とすれば、承認・批判といったコミュニケーションの違いこそが、その人の幸福と不幸、成功と失敗、繁栄と不遇を分けていると言えるわけです。

人間相手は加点主義しかありえない

よほどのうぬぼれやでもない限り、自分自身を仔細に観察すれば、誰でも自分自身は欠点だらけ、と感じることでしょう。その欠点は実は長所の裏返しでもあって、人間は欠点と共存している生き物です。たとえば、おおらかという長所はおおざっぱという欠点でもあるわけです。その結果、欠点を言い出せば、もう少し頭がよければ、もう少し背が高ければ、もうすこし美人なら、ということから始まって、もう少しお金があったら、伴侶にめぐまれたら、子供がいたら、・・・と枚挙にいとまがありません。

ですから、減点主義で自分を採点した日には、不足ばかりです。これでは自分自身を承認できるわけがありません。自分自身を承認しようと思えば、断固加点主義で行く必要があります。五体満足は減点主義でいけば当たり前ですが、加点主義でいけば、それすらもありがたく思われます。世の中には目が見えないといった人も大勢いるからです。

自己承認とは、欠点だらけの自分にあって、これだけは、というこだわりの長所を前向きに肯定することです。その際、全く他人と比較しないわけにもいきません。といって、あまり他人と比較しては、減点主義になってしまいます。結局、人間はどの人も、ささやかな長所を拠りどころに生きているわけです。そしてそのためには加点主義は必要不可欠だと言うことです。

さて、人間はこうしたもの、という前提に立てば、人間相手のコミュニケーションはどうあるべきか、というのは自明です。加点主義の立場に立って、サービス精神満点の承認に徹する、のが正しいのです。減点主義に立って相手を批判するというのは、人間相手では全くそぐわないのです。

関係改善のやり方はある
837



他民族に対する蔑視というのがなければ、人は外国人に対しては寛大です。つまり、外国人が自分たちの価値観と全く異なる言動に及んでも、

「外国人とはそんなものだ」
「外国人だからしかたがない」

と健全な割り切り方をします。異文化という理解があるからです。同じ日本人同士ならもう少し厳しくなりますが、基本的に、

「他人だから」

と割り切れます。人それぞれ生い立ちも違い、考え方が異なるので、一人一人が異なった文化を内面に持っている、と考えることができるからです。

ところが職場や家族・親族という身内が対象になると、同文化という思い込みが強くなります。

「こんなこともわからないのか」
「これぐらいは当たり前だ」

という思いが強いので、どうしても減点主義に走りがちです。その結果、外部の他人との人間関係がむしろ良好で、身内との人間関係が良くない、という逆転現象をよく引き起こします。いわゆる近親憎悪です。

近親憎悪がなぜ起こるかと言えば、期待感が強く、俗に言う「遠慮がない」状態であるため、簡単に相手を批判するからです。つまり、叱責主義と減点主義を同時に実践しているわけです。

世の中は身内(職場や家族・親族)との人間関係のトラブルに悩む人で満ちています。私はコーチングで多くのクライアントさんをお相手しますが、まず悩みの半分は身内との人間関係のトラブルと言っていいくらいです。身内とは四六時中顔をつき合わせているわけですから、身内との葛藤はトラブルなどという生やさしいものではなく、「この世の地獄」です。驚くほど多くの人が身内との葛藤に悩み、傷ついたり、精神的エネルギーを浪費したりしているのです。

身内との葛藤のパターン

身内との葛藤のパターンはどちらか片方もしくは両方が、叱責主義・減点主義を同時に実践しています。とくに目上(上司・親)が目下(部下・子)に対して叱責主義・減点主義を振りかざすことが多いのです。しかしその逆に目下が目上に叱責主義・減点主義を取ることもあります。こちらも一応言葉遣いこそ丁寧ですが、辛らつです。

一方が叱責主義と減点主義で来た場合、もう一方が同じやり方で応じれば、人間関係は最悪の状態になります。一方が我慢して耐え忍べば、まだましですが、耐え忍ぶほうは強度のストレスに悩むことになります。

ではどうすれば状況を改善できるのでしょうか。叱責主義・減点主義を行使している方が考え方を変えるか、耐え忍んでいるほうが考え方を変えるか、のいずれかです。経験上、どちらの側であってもやり方はある、と申し上げておきます。片方が考え方を変えた結果、状況が改善した事例をご紹介してみます。

叱責主義・減点主義を行使している側がやり方を変えた事例

クライアントのHさんの会社に今年入ってきた新入社員は現在21才とのことです。入社当時はさほどではなかったのですが、今ではモチベーションが上がらず、周囲から頼まれた仕事を棚上げにしたり、他の人に振ったりするようになったそうです。そのため周囲が大変ストレスを感じ出している、とのことでした。

Hさんは当初は彼を呼んでこう話そうと考えたそうです:

「君の仕事ぶりに他の人は切れかかっている。この調子だと、君、先がないよ」

しかし、こんな言い方はいくらなんでも刑の宣告に等しい、これを言った時点ですでに終わってしまっている、と思い直してこういう言い方に変えたそうです。

「君の仕事を指導するのは僕の責任だ。君が周囲の期待に応えられていないのを申し訳なく思っている。僕が今、君にできることはないかな」

言い方でこうも違うのか、と思います。前者の言い方と後者の言い方は何が違うのでしょうか。

<前者>減点主義で理想と現状のギャップを埋めようとしている (批判)
      → 相手のあり方を強要している

<後者>加点主義で理想と現状のギャップを埋めようとしている (相談)
      → 相手のあり方に選択の自由を与えている


減点主義と加点主義の違いは相手の自由度にあるわけです。当然加点主義の方が意欲をかき立てることができるわけです。

もうひとつ注目すべきは、相手を批判した時は、どうしても自分を正当化する必要がある、ということです。自己正当化は本末転倒する傾向があって、自己正当化するためには、相手が悪くなくてはいけない、というふうにいつの間にかすり変わってしまうのです。こうなると、相手を良くするために苦言を呈しているのか、自分を正当化するために苦言を呈しているのか、わからなくなってきます。

結局、相手の批判は、相手を変えるには拙劣な方法で、大抵うまくいかない、ということが言えます。逆に言えば、相手を批判せずに相手と相談すれば、相手が変わる可能性がある、ということです。その分岐点が加点主義か減点主義か、といことなのです。

こんなふうに神経を使っても、結局辞めてもらわなければならない人は辞めさせなくてはなりません。しかし、辞めさせる必要のない人は間違いなく残すことができるわけです。

耐え忍ぶ側がやりかたを変えた事例

私は同族企業に在籍し、父親は社長という上司でもあります。私は以前は、

「そんな言い方はないでしょう!」

とよく父に食ってかかったものです。つまり「上司はかくあるべし」という期待感が強かったわけです。こんな期待感があるうちは人間関係、絶対うまくいきません。そういうわけで一時は父との関係が相当に険悪でした。口論に疲れ果てた結果、面従腹背の態度を取っていた時期もありました。しかし、不満は必ず顔に出ます。結果、相手にすぐにわかってしまいます。

あるとき「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という言葉に出会ったのです。「他人は変えられない」という原則を父に当てはめることにしました。つまり、期待感を捨て、加点主義をとるようにしたわけです。

70を近い老人に文句を言っても、変わるわけがないですし、「あなたの性格、ここを直したほうがいいよ」と忠告されたところで、おいそれと直せるわけがない。だったら、こちらが合わせるしかありません。そのほうが問題がずっと早く解決するし、相手に合わせていく分、人間としての幅が広がるというものです。その結果、

「お気持ちはわかりますが、それはこうしたほうがいいですよ」

といった承認を織り交ぜた説得ができるようになりました。つまり、昔は意見が違ったら、気に障るようなことを言われたら、憤然としていたわけです。しかし、今は「それで当たり前」と割り切っている結果、相手の気持ちも承認でき、冷静に意見を調整できるようになった、ということです。つまり、

加点主義 = 期待感がなくなる = 腹が立たない = 相手の気持ちが承認できる

ということです。今にして思えば、「相手が変わるべきだ」とムキになっていた昔の私は、まだまだ未熟者であったなぁ、と恥じ入らざるを得ないのです。

意欲があるかないか
836



コーチングの実習をしているクライアントさんから相談を受けました。

コーチングで理想と現実のギャップというけれど、いつも現実に不平・不満を感じている相手でないとコーチングできないのではないか。現在幸福で現状に満足している人はコーチングの必要がないのではないか。このように他人から問われたのだが、答えに困った、とのことです。

たしかに2通りの人種がいるでしょう。

@現在幸福である結果、これといった意欲のない人
A現在幸福である結果、あれしたいこれしたいという意欲がふんだんにある人

@のタイプは生き甲斐がない人です。確かに、生き甲斐のない人にコーチングは不要でしょう。Aのタイプは生き甲斐がある結果、意欲十分ということになります。

とは言っても@の生き甲斐のない状態にとどまっていてもつまらないですから、@の多くはAに転ずると思われます。

たとえば一生食うに困らない経済的自由を得た人なら、かえって○○を学びたい、□□に行きたいという意欲が強くなることでしょう。

ということは、現在幸福で現状に満足しているとしても、いくらでもコーチングできることになります。意欲の行き着くゴールと現状には必ずギャップがあるはずですから。

現状に満足している=意欲がない

と短絡していまったのが、この人のはまった陥穽ということです。逆に、

現状に満足していない=意欲がある

とも必ずしも言えません。世間の人の多くは現状に満足していませんが、なすすべがないわけですから。

結局コーチングできるできないかは、現状に満足している満足していないではなくて、意欲があるかないかに尽きるのです。この二つは次元の違うハナシなのです。
850 スキルではなく意欲に働きかけるのがコーチング
849 まず相手の現状を肯定しよう
848 受身の練習
847 承認の共鳴
846 記憶力の減退

*
845 子供が泣いて連絡が取れない?
844 方便をでっちあげる
843 聴衆1000名
842 心臓を鍛える
841 とりあえず承認しておこう

*
840 コーチングも選択肢のひとつ
839 役回り
838 加点主義・原点主義が人生の分かれ道
837 関係改善のやり方はある
836 意欲があるかないか
*
835 ライフワークはわからなければぜいたく品
834 まず、変な人に辞めてもらう
833 説得がうまい人
832 国会討論というけれど
831 絶対相手を承認してはいけないコミュニケーション

*
830 真我の発動
829 不親切なようでも
828 批判せずに相談しよう
827 単純化
826 存在感の出し方

*
825 チャレンジを続けるところに自己承認はある
824 指摘と批判は紙一重
823 加点主義とあげまん
822 自分をゆるす
821 他人をゆるす

*
820 承認は元気の源泉
819 少子化社会は意識的なコミュニケーションが不可欠
818 コミュニケーションでケアしなければならない時代
817 いかにオープン・クェスチョンに慣れてもらうか
816 バランス・シート経営

*
815 氷室の日(7月1日)
814 日常の繰り返しを破る
813 凪
812 「いざとなったら」、このポイントを押さえよう
811 苦手な歯科

*
810 心の法則の誤解
809 夢は他言しない
808 まともな人だけ相手にする
807 逆境に勝る師なし
806 癒しの傾聴はやらない

*
805 武豊町
804 自己実現の陥穽
803 承認は自我を育てる
802 人間相手は加点主義しかありえない
801 外的コントロールは減点主義だから古い


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001〜050 051〜100 101〜150 151〜200 201〜250
251〜300 301〜350 351〜400 401〜450 451〜500
501〜550 551〜600 601〜650 651〜700 701〜750
751〜800 801〜850 851〜900 901〜950 951〜999
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